2018年4月1日日曜日

「なぜ被害者の方が考慮しなくてはいけないのか」という嘆きのもっともな部分とそうでもない部分

先日のポストの補足.性暴力・性犯罪の被害者の相談窓口を紹介する内閣府ツイートへの批判をもう一度とりあげる.


今回考えたいのは,「なぜ被害者が相談する際のポイントを考慮しなければならないのか…」という部分だ.この部分には,ぼくも賛同というか共感する面と,おかしいと思う面がある.

共感する面は,こういうことだ:性犯罪・性暴力ですでに苦しんでいる被害者が,さらに相談や被害報告などに苦心しなくてはならないのは,とてもつらいことだろう.そもそもそんな苦心をしなくてすむならそれに越したことはない.

似たような状況は他にもある.たとえば,信号待ちで停車していたところに不注意な後続車が突っ込んできて追突されてしまった場合がそうだ.こちらの落ち度もないはずなのに自分の車をヘコまされてしまったうえに,警察への通報・状況説明その他もろもろの手続きに時間と労力を奪われてしまう.そんな面倒なことをしなくてすむならそれに越したことはない.

ところで,相談などの手間をとらなくてすむのは,どういう場合だろうか.ぼくに思いつくのは2とおりだ:1つはそもそも性犯罪・性暴力の被害者になっていない場合,もう1つは被害者になったが相談しない場合.被害者がいない前者は理想的なのぞましい場合だけれど,後者は二重にわるい.すでに被害者がうまれているのに,その人が状況をいくらかでもマシにする経路を絶ってしまっているからだ.

追突事故の状況でも,そもそも事故が起こらず警察への通報などなどをしなくてすむのは理想的なのぞましい場合だけれど,事故が起こったのに通報・状況説明をしないのはさらに状況を悪化させてしまいかねないダメな選択だ.まして,事故に関する警察への通報や相談ができない・しにくいとなると,事態はいっそうわるくなる.

そもそも性犯罪・性暴力がなければいいのに,という嘆きとしては上記の「なぜ被害者が相談する際のポイントを考慮しなければならないのか…」にはとても共感できる.そうした被害者がいない,あるいはせめて少ない方がのぞましい.けれども,現に被害者がいるなかでは,そうした人たちが相談できない・相談しにくい状況はけっしてのぞましいことではない.それよりは,被害者が相談しやすい方がのぞましいはずだ.

内閣府のツイートやホームページは,どれくらいうまくできているかはさておいて,そうした相談をしやすくしようという趣旨なのだから,それに対して「なぜ被害者が相談する際のポイントを考慮しなければならないのか…」という批判を向けるのは,ポイントがずれている――相談する際のポイントがわからない・わかりにくい方がのぞましいと本当に思うのだろうか?

「どうして被害者がさらにコストを負担しなくてはならないのか」という嘆きは,さまざまな状況・事例でうまれるはずだ.そうした嘆きの共感をよぶ面と,事態の改善につながらない面とを区別した方がいいとぼくは思う.共感 *だけ* ではいけないんだ.

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