何カ所か,「命題」を《 》で括ってないところは原文でも小文字の proposition になっております.
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このように構造的に対応する類似点はあるものの,それでも,効力の概念を明らかにすることがコミュニケーションの理論にとって重要なのはどうしてなのかと疑問に思うかもしれない.A がコミュニケーションの重要要素であり,その A が B を決定しきらないとして,だからといって,「B はコミュニケーションの重要要素だ」という結論が正当化されるわけではない.決定しきらないという点では,人が話す音量が何デシベルなのかも内容は決定しきらないが,だからといって,音量が何デシベルなのかを語用論や言語の哲学の中核概念に加えることが正当化されるわけではない.どうして効力は中核概念に加える値打ちがあって音量はそうでないのだろうか? 効力と音量のこの非対称の理由を1つ挙げるなら,音量とちがって効力は話者意味の要素になっているように思われるから,という点がある:効力は,言われたことの特徴ではなく,言われたことがどう意図されているかという特徴だ.これと対照的に,音量はせいぜいのところ何かがどう言われたかの特徴でしかない.この点はセクション 5 でさらに議論を深めよう.
ここまで,あたかも言語行為の内容は《命題》に決まっているかのように話してきた.実際,常々サールは言語行為を F(p) の形式をもつと分析している (e.g. 1975, p.344).この F(p) の 'F' は効力の要素で,'p' は《命題》内容の要素だ.だが,この20年間で,言語学の意味論は平叙文以外の2つの主要な文法的叙法すなわち疑問文と命令文についても内容の形式的な表示を発展させてきた.Hamblin (1958), Bell (1975), Pendlebury (1986) その他による分析に基づいて,疑問文の意味論に対してこういう戦略がとれる――疑問文は単一の命題ではなく命題の集合を表しており,想定される命題の集合の各要素は当該の質問への完全な回答となっている.たとえば,「いくつのドアがしまっていますか?」('How many doors are shut?') によって表される内容は {<ひとつもしまっていない>, <ひとつのドアがしまっている>, ...} となる.省略した ... の箇所には,質問者が求める回答だと解釈するのが妥当な《命題》があるだけすべて入る.そうした集合を《疑問文》と呼ぶことにしよう.《疑問文》への完全な回答は,《疑問文》を定義する集合の要素だ.部分的な回答とは,その集合の部分集合で2つ以上の要素をもつもののことだ.たとえば,「2つ~4つのドアがしまっている」がそういう部分的な回答だ〔つまり,{<2つのドアがしまっている>, <3つのドアがしまっている>, <4つのドアがしまっている>} という集合〕.ここでの概念化では,《命題》内容を表現することと確言することとを区別できるのと同じように,《疑問文》を表現することと質問をたずねることとを区別できる.たとえば「いくつのドアがしまっているのかジョンは疑問に思っている」('John wonders how many doors are shut') のような発話では,《疑問文》がただ表現される.それどころか,単一の発話で2つの《疑問文》を表現しつつ,どちらもたずねないでいることもありうる.たとえば「いくつのドアがしまっているのかは何人の客が試着しているかに左右されるだろう」('How many doors are shut will depend on how many customers are trying on clothes') のような発話がそうだ.質問をたずねることも,確言するのに劣らず重要な会話の一手だ.
同様に,Hambling (1987), Belnap (1990), Portner (2004) その他の研究では,命令法の文の意味論的な分析も提案されている:命令文が表現するのは属性 (property) であり,話者が命令文を発して聞き手がそれを受け入れたとき,その属性は聞き手の「やることリスト」に加えられる.この「やることリスト」も,会話のスコアとしてのちほど記述するパラメータだ(セクション 7).
このように,文の内容という概念をゆるめて平叙文以外の文の内容も取り込むようにしたことで,Stenius がいう化学との類推をこう書き直せる:
発語内効力:分の内容::官能基:ラジカルここで,文法的叙法がちがえば,それに応じて文の内容もさまざまにタイプが異なる.こうして類推を洗練させたことで,この度は,ラジカルにもさまざまなタイプが必要となる.[6]
---- ここまで訳文 ----
つづく: #5
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