オースティン抜粋:遂行的 vs. 事実主張的の区別の放棄を述べた箇所
What will not survive the transition, unless perhaps as a marginal limiting case, and hardly surprisingly because it gave trouble from the start, is the notion of the purity of performatives: this was essentially based upon a belief in the dichotomy of performatives and constatives, which we see has to be abandoned in favour of more general families of related and overlapping speech acts, which are just what we have now to attempt to classify.
(J.L.Austin, How To Do Things With Words, p.149)
他方,おそらく極端で極限的な事例として以外には,この理論の移行の後に生き残らないと思われるものの,さりとて最初から困難の原因であったためにさほど驚くべきこととも言えないことは,遂行的発言の純粋性という概念である.この概念は,行為遂行的と事実確認的という二分法に対する信頼に本質的に基づくものであったが,まさにこの二分法こそ,われわれがより一般的に,一群の,相互に連関し,相互に重複する言語行為というものを採用した結果放棄せざるを得ないことが理解されたものであり,かつ,この一群の言語行為こそわれわれがいまや分類にとりかからなければならないものなのである.
(J.L.オースティン『言語と行為』 p.251)
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