2018年4月19日木曜日

スタンフォード哲学事典の「言語行為」を訳読しよう #08

グリーン「言語行為」を(以下略)。前回はこちら

—— ここから訳文——

3.1 適合方向


Anscombe 1963 にさかのぼる一例を考えてみよう: ある女性が夫に買い物リストを渡してスーパーにおつかいに行かせる。夫には知る由もないが、実は探偵が尾行していて、夫が買ったもののリストをつくっている。夫が会計をすませたとき、2人のリストに載っている項目はぴったり合致する。2人のリストに載っている項目はまったく同じでありがなら、2つのリストはまた別の尺度で見るとちがっている。夫の買い物リストの内容は、ショッピングカートに入れるものを手引きする。この点で、夫の買い物リストは世界から言葉への適合方向を示している:つまり、いわば買い物リストに書かれているとおりになることがショッピングカートにある品物の役目だ。これと対照的に、探偵のリストは世界に合致するのが役目だ。とくに、夫のショッピングカートに合致しなくてはならない。この点で、探偵のリストには言葉から世界への適合方向がある:物事のありように合致するのが、探偵のリストの言葉の責務だ。確言や予言といった言語行為には言葉から世界への適合方向がある一方で、命令のような言語行為には世界から言葉への適合方向がある。

あらゆる言語行為に適合方向があるわけではないようだ。「ありがとう」と私が口にすれば相手に感謝できる。この感謝が言語行為であることは広く合意がある。だが、感謝にはさきほど取り上げたどちらの適合方向もなさそうに思える。同様に、ドア横にいるのは誰なのかたずねるのは言語行為だけれど、やはりどちらの適合方向もなさそうに思える。質問は一種の命令なのだと(e.g. 「ドア横にいるのは誰か答えたまえ!」)捉えることでこの問題に対応する人たちもいる。命令ならではの適合方向が質問にもあるのだと考えるわけだ。しかしそうすると、感謝や、「がんばれがんばれアーセナル!」のようなありふれた事例も手付かずのままになってしまう。サールとヴァンダーヴェーケンなど一部の研究者は、こうした事例には「ゼロの」適合方向があるのだと述べている (Searle and Vanderveken 1985)。この特徴づけは、こうした言語行為には適合方向がまったくないと言うのとは明らかにちがっている〔反語?〕。[8] 


適合方向〔という概念〕は、さまざまな言語行為を区別してそれぞれにちがった扱いをほどこせるようにしてくれるほど細やかなものではない。天の川の真ん中にはブラックホールがあると確言するのと、同じことの推測を述べる (conjecture) のとを考えてみよう。この2つの行為がしたがう規範は異なる:なにかを確言すればそのなにごとかを当人が知っていることを主張することになるのに対して、推測はそうならない。この点は、確言に対して「どうしてわかるの?」(How do you know?) と返すのが適切になる (Williamson 1996) のに、推測への返答には適切でない (Green 2009) ことからうかがえる。それでも、確言も推測もともに言葉から世界への適合方向をもつ。同じ適合方向をもつ言語行為どうしを区別できるようにしてくれる概念は他にないだろうか? 

—— ここまで訳文 ——

つづく: #09

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