2018年4月11日水曜日

スタンフォード哲学事典の「言語行為」を訳読しよう #01

『スタンフォード哲学事典』から,「言語行為」の項目をちょっとずつ訳していこう.やたら長いし,ちょいちょいめんどくさい言い回しをしてるので,訳し終わるまでけっこう時間がかかると思うけど,興味がある人はおつきあいくださいな.
  • 原文: Mitchell Green, "Speech Acts," Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2007/2014. 
原文の方でも blockquote がちょいちょい使われているので,訳文全体は blockquote に入れないことにする.

---- ここから訳文 ----

普段の会話で私たちが自然と注意を向ける主な対象は,お互いに交わしている文ではなく,そうした文の発話で遂行されるいろんな言語行為だ:お願い,警告,招き,約束,謝罪,予測といった言語行為に自然と注意が向かう.こうした行為なしに人とのやりとりは成り立たない.ところが,少なくとも英語圏では,持続的に研究されるようになったのは,20世紀中盤になってのことだった [1].それ以降,「言語行為理論」の影響範囲は哲学をこえて,言語学・心理学・法理論・人工知能・文学理論・フェミニスト思想といった学術分野まで広まっている [2].言語行為の意義が認識されたことで,言語には現実を記述する以外にもものごとをなしとげる能力があることがはっきりと理解されるようになった.その過程で,言語の哲学・行為の哲学・美学・心の哲学・政治哲学・倫理学の境界線は以前ほど明確でなくなっている.それに加えて,言語行為が理解されることで,言語を用いる営みに隠れている規範的な構造を明るみに出しやすくもなった.現実を記述することに関わる営みにすら,そうした構造はある.もっと近年の研究では,言語を用いる営みにあるこの規範的な構造を正確に特徴づけることを目指すものもある.

1. 導入


バートランド・ラッセルの記述の理論は,20世紀の多くの哲学者にとってお手本だった.ひとつには,古くからの哲学問題が実は見かけ倒しのまがい物だと示す方法がそこに提示されていたからだ.ラッセルの論によれば,「現在のシンガポール王はハゲだ」や「丸い四角形は不可能だ」といった文がもつ表層的な文法形式は,その基底にある論理構造を誤解させやすい.こう論じることで,べつに現在のシンガポールの君主や丸い四角形の存在を想定しなくてはならないと考えなくても,こうした文は有意味でありうるこ方法をラッセルは示した.のちに「日常言語運動」〔あるいは日常言語学派〕として知られるようになる多くの哲学者たちは,この成果に感化されてこう論じた――「古典的な哲学問題(e.g. 自由意志,心身の関係,真偽,知識の本質,正不正といった問題)もこれと同様に,問題を立てる際に使われている言語の誤解から生じている.」 一例を挙げれば,『言語と行為』(How To Do Things with Words) で,J.L.オースティンはこう書いている:
(…)近年になって,かつてなら疑いもせず「言明」だと受け取られていただろう多くのことが,哲学者や文法家によって新たな手法で吟味されるようになっています(…).言明らしく見える多くの発話が,事実についてありのままの情報を記録したり伝えたりするようまったく意図されていなかったり,記録や伝達は意図されることの一部でしかなかったりすることは(…),広く知られるようになりました..こうした線に沿って,徐々にではありますが,伝統的に哲学で難問とされてきたことの多くは誤解から生じていることがいまではわかっています.あるいは,少なくとも誤解によるものである見込みが強くなっています.その誤解とは,(興味深くも文法以外の面で)無意味であるかあるいはかなり異なることを意図されているもの〔言明〕を,事実をあるがままに述べた言明として受け取る誤解です.こうした見解や提案はさまざまですが,その個々についてどう考えるにせよ(…),これらが哲学に革命を起こしつつあるのは疑いようがありません.(Austin 1962, pp.1-2)

日常言語運動は,これ以外に広く「言語表現の意味はその使用にひとしい」と主張し,伝統的な哲学的難問を克服しようと望んでいたものの,オースティンが語った革命を成し遂げなかった.それでも,日常言語運動から引き継がれていまに残っている遺産はある.そのひとつが言語行為の概念だ.

言語行為ならではの特徴を理解するには,言語の哲学や言語学で確立されている他の現象と対比する手がある.本項でもこの手をとることにして,言語行為を次のような項目と関連付けて考察する:意味内容,文法的な叙法,話者意味,論理的に完璧な言語,発語媒介行為,遂行発話・遂行文,前提,推意.こうすることで,これらの生態的なニッチに言語行為を位置づけられるだろう.

この導入では,「言語行為理論」と引用符で括って記した.言語やコミュニケーションを研究する人たちにとって言語行為が重要な現象だということと,その言語行為の理論をすでに私たちが手にしているということは,別々の話だ.このあと見ていくように,言語行為をそのニッチに位置づけることがいまもできている.他方で,言語行為の理論があれば,そのとりわけ重大な特徴の一部を(たんなる記述にとどまらず)説明できるようになるだろう.別の場合を考えよう.意味理論は,そう呼ばれるにふさわしい資格がある:たとえば,集合論のツールを援用しつつ,意味理論は,日常言語で表現されたよい論証とわるい論証のちがいを見分ける助けになってくれる.これと対照的に,「言語行為理論」がこれに比肩する資格があるいかどうかはそれほど明らかでない.たとえば,言語行為どうしの論理的な関係が存在するとして,それらを明らかにできることも,〔「理論」と呼ぶにふさわしい〕資格のひとつだろう.この資格を調べるべく,本項では一部の人たちが構想している「発語内論理」の可能性を考察する.同様の理由で,本項の最後では,言論の自由をめぐる現在の論争と言語行為の関わりを論じて締めくくる.

---- ここまで訳文 ----


#02 につづく.

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