2018年4月17日火曜日

スタンフォード哲学事典の「言語行為」を訳読しよう #06

ミッチェル・グリーン「言語行為」(スタンフォード哲学事典)をじわじわ訳読してるだけのポストだよ.(前回はこちら



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2.3 遂行性の理論諸説


遂行文/遂行発話 (performatives) は言明ではない,とオースティンが主張したのはよく知られているところだ (Austin 1962, p.6).これは,直説法の文法的叙法をもつ平叙文でありながらも遂行文には真理値がないという主張にもとれるし,あるいは,遂行文には真理値があるもののそうした遂行文の発話は確言ではないという主張にもとれる.平叙文には真理値があると一貫して考えつつ,しかもその発話で言ったことが真であっても,その発話が確言であることを否定することはできる.(マイクの調子を確かめるために「雨がふっている」と言ったところ,そのときたまたま外で雨がふっていたとしても,このとき私は確言をなしたことにはならない.)

レモンの議論では,発話されることによって真になる文というもっと広範な種類の事例に遂行発話が該当するのを根拠に,遂行発話は真なのだと主張している (Lemmon 1962) {1}.この論証が頑健だとしても,これで明らかになるのは遂行文に真理値があるということであって,その発話が確言だということではない.また,レモンの議論では,「私は~と約束します」('I promise') のように遂行的に使えるものと,使えないものがあるのはなぜなのか」という問題も答えられていない.Sinnott-Armstrong 1994 の議論では,遂行文が真理値をもちうると主張しつつも,遂行文が確言をなすのに使われるのかどうかという問題をとりあげていない.Reimer 1995 の議論では,遂行文には真理値があると主張する一方で,遂行文は確言ではないとも言っている.同様の戦略を採用した Jary 2007 は,「キッチンを掃除するよう命じます」('I order you to clean the kitchen') のような文の発話がうまく命令となりうる仕組みを説明するのを目指している.Jary は Geen 2007 の分析を引用しつつ,こうした発話は話者の発話の効力を(たんに記述するだけでなく)示しているのだと論じている.「示す」(show) は叙実的なので,もしそうした発話がその効力を示すのであれば,必ずその効力があることになる {2}.

訳註 {1}: 発話されることによって真になる文の例を他にもあげておこう:「私はいま日本語の文をしゃべっています」――この文は発話することで真になる.けれども,この文は遂行文ではない.発話でなされる発語内行為を明示する動詞などを含んでいないからだ.
訳註 {2}: 叙実的な動詞は,しかじかの事柄が事実であることを前提にする.たとえば「宿題を忘れたのをぼくは後悔してる」と言ったら,宿題を忘れたのは事実だということが前提になる.「示す」も同様だ.「太郎が学校をさぼっていたのを彼女は示した」と言えば太郎が学校をさぼったことは前提になる:ためしに「しかし,学校をさぼったかどうかはまださだかでない」と続けるとおかしくなる.これと対照的に,たとえば「太郎が学校をさぼっていたのを彼女は示唆した」では,そうした前提はなく,「しかし,学校をさぼったかどうかはさだかでない」と続けてもおかしくはない.

オースティンに対する批判の大半は,遂行文を確言だと解釈して,その解釈のもとで遂行文の特徴を説明しようと試みる.Ginet 1979 の議論では,遂行動詞(「約束する」「指名する」etc.)は,話者がいまやろうとしていることを断定することで遂行できる種々の行為を名指していると主張して,その理由を詳しく述べている.こうすることで,Ginet は遂行発話が確言だという想定に依拠して遂行文が機能する仕組みの説明を提示している.同じ想定を出発点にして,バックの議論 (Bach 1975) では,「キッチンを掃除するよう命じます」は確言だと主張し,その上で,いかにして話者が確言しつつ間接的に命令もしているかということを説明している.話者の伝達意図を聞き手が識別できることを話者が当てにできることが,この説明のよりどころとなっている.のちの研究で(Bach & Harnish 1978, 1992 など),この見解は標準化の概念によって洗練されている.遂行的な効果をもつ確言をなすことが十分によくある慣習になっていれば,話者と聞き手は複雑な推論を飛ばしてしかじかの発語内行為が遂行されているという結論にデフォルトで一足飛びに到達できるようになる.こうしたバックとハーニッシュの説を Reimer 1995 が批判している.その論拠は,平叙文を話者が遂行的な効果とともに話者が発していることに確言の効力が帰せられると聞き手が考えているように思えない,という点にあると Reimer は言う.明らかに,この Reimer の批判は Ginet の提案にも同じく当てはまる.Reimer の対案によれば,遂行発話は,彼女が「発語内的慣習」(illocutionary conventions) と呼ぶシステムに依拠してその遂行的な効果を達成するのだという.

「私は…と約束する」のような遂行式 (performative formula) は「発語内効力標示」(illocutionary force indicator) だとかつてサールは論じていた (Searle 1969).発語内効力標示とは,話者の発話の効力を明示するのを役割とする装置のことだ.だが,なにかを明示するということは,独立の出来事または事態を特徴づけることになるように思える.そのため,サールの説明では,話者がじぶんの発話に降位や破門 [demotions and excommunications] の効力を吹き込めることが前提になってしまっている〔この箇所わからん〕.この点を認識して,のちの研究でサールとヴァンダーヴェーケンは,言語行為としての遂行発話は宣言の効力をもつのだと特徴づけている (Searle and Vanderveken 1985) .文句なしにこうした言語行為に該当する事例は,宣戦布告や会合の解散〔「これにて本会を解散いたします」〕だ.だが,のちの研究で (1989),この説明ではそもそも特定の表現が宣言をなす力をもつようになるのはいかにしてかという問いに舞い戻ることになることをサールは認めている.同じ論文で,サールがこの問いに対して提示した答えは,遂行的な前置き〔とくに英語の語順で I order/promise/promise you... のように遂行動詞を含む主節のこと〕のある文を発話するとき,話者は特定の行為を遂行する意図を顕在化しているという見方に依拠している:たとえば「ドアをしめるようキミに命じます」(I order you to close the door) という言葉を発するとき,話者は相手にドアをしめるよう命じる意図を顕在化させている,というのだ.また,このように言語行為を遂行する意図を顕在化させることだけでその行為の遂行に十分だとサールは考えている.以上にもとづいて,サールはさらに論をすすめて,遂行発話に確言としての性質があることも導き出そうと試みている.しかじかのことが真だと言うかたちで発話されるとき,遂行発話は確言でもあるというのだ.

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原文の参照文献リストに Reimer 1995 が載っていないようだ:

  • Reimer, M. "Performative utterances: A reply to Bach and Harnish," Linguistics and Philosophy, December 1995, Volume 18, Issue 6, pp 655–675. 
つづく: #7

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