2018年4月14日土曜日

スタンフォード哲学事典の「言語行為」を訳読しよう #03

あまりすっきりした解説ではないけど,引き続きミッチェル・グリーンせんせいの「言語行為」を訳読していくYO!(前回はこちら

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2.1 効力と内容は独立している

次に,話者が言うことと話者の発話の効力との区別をもっとはっきりさせよう.有意味な単語からできた文法的な文は,通例,なんらかの「内容」を表現すると考えられている.この内容を決定するのは,その文が文字通りに意味することと,発話文脈のいろんな特徴の組み合わせだ.たとえば,混雑した地下鉄の車内で,誰かにこう言ったとしよう:「あなた,私の足を踏んづけていますよ」("You're standing on my foot.").すると,こう発言して伝えようとしているメッセージは,足をどけるべきということである見込みがいちばん大きいだろう.だが,ここで文字通りに言っていることは,相手が私の足を踏んでいるということでしかない.これが,この発話の内容だ.有意味な単語から成り立っている文法的な文のすべてではないまでも大半は,その文の内容にとどまらないことを表現している.だが,語用論研究者は,通例,発話で伝えられる意味の他の側面から内容を区別している.この方向で考えると,別々の言語で言われた翻訳可能な2つの文は同じ内容を表現するし,同じ言語内でもなんらかの文にしかじかの変形をほどこすと同じ内容を表す別の文ができあがると考えられている.たとえば,「メアリーはジョンを見た」("Mary saw John") と「ジョンはメアリーに見られた」("John was seen by Mary") は,話者がどちらを選んで使うかによって示唆されることがはっきりとちがってくるにせよ,どちらも同じ内容を表している.平叙文では,そうした内容は典型的に《命題》(Propositions) と呼ばれる.(以下,本稿ではこの用語を《 》で括って〔英語では大文字にして〕部分的に専門用語であることを示す.) そうすると,命題とは平叙文の内容であり,そうした文が表すものであり,さらに,真理値を主に担う要素だともしばしば考えられている.つまり,雪がふっているという命題が真であるかぎりにおいてのみ,「雪がふっている」という文は真になる.以下,本稿では《命題》の概念をどう考えるのが適正かについて中立をとおす.《命題》とは可能世界の集合なのか,順序 n-組なのか,そのどちらでもない実体なのか,そのいずれであっても,言語行為についてここで考える事柄にはなんら違いは生じない.

発語内効力と意味内容は別物だとよく考えられているが,それはたんに左手と右手が別物だというような話ではなく,それぞれ属す範疇が異なると考えられている.Stenius 1967 はこの区別をはっきりさせるに当たって,こう述べている.化学で言うラジカルは独立して存在できない原子の集まりであるのに対し,官能基はその化合物がもつしかじかの性質をもたらしている原子の集まりを言う.これになぞらえてよく言われるのが,《命題》とはそれじたいでは伝達で用をなさないということだ.たとえば,雪がふっているという命題を表現するだけでは,「言語ゲーム」での一手を打つことにならない.そうではなく,確言・推測・命令その他の発語内効力とともに《命題》を提示してはじめて,言語ゲームでの一手が打たれる.この化学との類推をさらに支持する事実として,化学者はさまざまな化合物に共通するラジカルを単離できるかもしれないのと同じように,言語の研究者は「ドアはしめられている?」「ドアをしめろ!」「ドアはしめられている」に共通する要素をとりだせるかもしれない.この共通要素が,ドアがしめられているという《命題》が,最初の文ではたずねられており,2つ目の文では真にすべく命令されており,3つ目の文では確言されている.すると,化学との類推は次のようになる:

Illocutionary force : Propositional content :: functional group : radical
発語内効力:命題内容::官能基:ラジカル

In light of this analogy we may see, following Stenius, that just as the grouping of a set of atoms is not itself another atom or set of atoms, so too the forwarding of a Proposition with a particular illocutionary force is not itself a further component of Propositional content.
Stenius にしたがってこの類推を当てはめれば,原子の集合からなる基そのものは原子でも原子の集合でもないのと同じように,特定の発語内効力とともに《命題》を提示することそのものは《命題》内容のさらなる要素ではない.〔この類推,いらないんじゃねえかな…〕

この化学との類推に後押しされて言語行為の研究で中心をなしているのは,内容は一定のままでも効力はさまざまに異なりうるという考えだ.同じ論点を別の言い方で表せば,ある人が行う伝達行為の内容は,その行為の効力を過少決定する〔決定しきらない〕.だからこそ,"You'll be more punctual in the future" と誰かが言ったという事実からは,その発話の効力を推論できないのだ.発話の効力もまた,その内容を過少決定する〔決定しきらない〕:話者がなにか約束をしたという事実からは,その人がどんなことをすると約束したのかを導き出せない.こうした理由から,言語行為の研究者は,任意の伝達行為は2つの要素に分解できると主張する:それが効力と内容だ.意味論は伝達行為の内容を研究するのに対して,語用論は伝達行為の効力を研究する.

この効力/内容の区別は,心 (mentality) の理解にも対応するものが見つかる.言語行為はたんに「言語ゲーム」の一手であるばかりではない.言語行為は,〔効力と内容の構造と〕類似した構造的な特徴をもつ心の状態を表そうとしている場合もよくある.雪がふっていると確言するとき,雪がふっていると話者が信じていることが表されたり,話者がそれを表そうとしていたりする.『ミドルマーチ』を読むと約束するとき,『ミドルマーチ』を読む話者の意図が表されたり,話者がそれを表そうとしていたりする.こうした関係の証拠となるのが,こんな事実だ.たとえば「雪がふってるよ,でもぼくはそう思わないけど」と言ったり,「『ミドルマーチ』を読むと約束します,でも私は読むつもりがありませんけど」と言ったりするのは馬鹿げている.さらに,確言すること (asserting) と確言されたこと (what is asserted) とを区別できるのと同じように(assert(確言する)のような動詞に見られるいわゆる "ing/ed のあいまい性),あるいは,約束することと約束されることとを区別できるのと同じように,なにごとかを信じているという状態と信じられている事柄,意図するという状態または行為と意図されている事柄とを区別できる.サールは,言語行為とそれが表出する心的状態との構造的な対応関係を詳しく述べている (Searle 1983).ペンドルバリーは,このアプローチの長所を簡潔に説明している (Pendlebury 1986).

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つづき: #4

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