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2. 内容,効力,いかにして言うことによって言ったとおりにできるか
ものを言う行為とは,とにかく意味のある言葉を発話する行為だ.これに対し,「言語行為」は専門用語だ.近似の第一歩として言えば,言語行為とは,(他にもやりようはあるにせよ)自分がしかじかのことをやる言うことによってまさにその行為を遂行できる行為のことだ.このように考えると,辞任,約束,確言,質問は,すべて言語行為に当たる.他方で,相手になにかを信じさせたり,気分を害したり,身長を6インチ伸ばすのは言語行為ではない.たとえば,べつにこれしかやりようがないわけではないが,「私は(…)辞任いたします」("I resign...") と言うことによって辞任できる.だが,この直観的な概念だと,あまりにもいろんなものが含まれてしまう.たとえば,なにごとも意味することなく無意味な言葉をささやけるのに,これだとささやきも言語行為になってしまう.これに代えて,もっと正確に言語行為を特徴づけるにはグライスのいう話者意味の概念を基礎にすえる.この〔話者意味の〕概念は,ずっとあとのセクション 6 で論じる.さしあたっては,これだけ留意してもらえば事足りる――たとえば腕時計をチラチラ見やるとき,私は時刻を調べようとしているのかもしれないし,もしかすると,相手にそろそろ帰る時間だと伝えようとしているのかもしれない.前者は話者意味には該当せず,後者は話者意味に該当する.
すると,こう言える――言語行為とは,じぶんがしかじかのことをすると話者が意味することによって(必ずではないが)遂行できる話者意味の事例だ.この概念規定だと,辞任・約束・確言・質問は相変わらず言語行為に該当する一方で,相手になにかを信じさせることや気分を害することや6インチ身長を伸ばすことは除外される.また,ささやきの事例も除外できる利点がある.話者がなにごとも意味しなくてもささやけるので,ささやきは言語行為ではない(もちろん,ささやきで言語行為が遂行される場合もあるかもしれないが).さらに,言語行為には必ず言語が関わるともかぎらない:賭けたり,約束したり,辞任したり,挑発したりといった行為はすべて,言葉を使わずにできる.さきほどのように,言葉の発話ではなく話者意味を強調して言語行為を特徴づければ,この事実をうまくとらえられる.
また,言語行為は遂行文 (performatives) とも区別されねばならない.「遂行文」も専門用語で,ここではとりあえず文の一種を指して使う.遂行文は一人称・現在時制・直説法・能動態の文で,話者が言語行為を遂行していることを記述する.「ジョージが犯人だと私は断言します」(‘I assert that George is the culprit’) はこの基準に照らして遂行文に当たる.すでに見たように,遂行文を発話しなくても言語行為は遂行できる.さらに,遂行文は文の一種でしかないので,遂行文を発話しても言語行為が遂行されないこともありうる.たとえば,就寝中に私が寝言で「私はエッフェル塔に登ることをここにお約束申し上げます」と言ったとしても,それで約束がなされはしない.また,遂行発話 (performative utterance) とは遂行文の発話が言語行為となっている場合のことだと定義できる.[4]
さらに用語を追加しよう:ここでは,「言語行為」と「発語内行為」(illocution) を同義で使う.後者の用語はオースティンに由来するもので,彼は伝達行為のある次元を指して「発語内効力」(illocutionary force) を使った.(今日では ‘illocute’ という動詞を「言語行為を遂行する」という意味で使うこともよくある.) 「効力」(force) を使う理由を説明するのに,まずオースティンはこんな観察からはじめた.観察できる行動としてとらえた場合,誰かの行為がコミュニケーションでもつ意義は,その人が観察できるかたちで言ったことややったことで決定しきれない〔過少決定〕.〔たとえば〕私が相手の前で腰を折ったとしよう.この様子を見ただけでは,いったい私はおじぎをしているのか,お腹の具合がわるくてかがんでいるのか,それとも落としてしまったコンタクトレンズを探しているのか,相手にはわからないかもしれない.有意味な文の発話(オースティンはこれを「発語行為」(locutionary act) と呼ぶ)もこれと同様だ.たとえば 'You'll be more punctual in the future'(将来はキミももっと時間に厳しくなるよ)と誰かが言ったとして,いったい予測しているのか,命令しているのか,それともまさか脅迫なのか,どれとも決めかねるかもしれない〔例文の日本語訳だとそうでもないけれど,英語で You will ... と言うと命令にもとれる〕.口語で "What is the force of those words?"(その言葉はどういう趣旨なの?/真意はなんなの?)とたずねることがよくある.こういう風にたずねるとき,相手が発した言葉の意味はわかるのを認めつつ,その意味をどう受け取ればいいのかを相手に答えてもらおうとしている――脅迫なのか,予測なのか,それとも命令なのかをたずねているわけだ.
あるいは,そういう風に思える.オースティンに対して初期になされた批判で,コーヘンはこう論じた――文の意味(オースティンのいう発語意味 (locutionary meaning) がすでにあるのなら,発語内効力の概念は蛇足だ (Cohen 1964).コーヘンが主張しているのは,.「その小説を読むと約束します」('I promise to read that novel) のような遂行文では,文の意味ですでに約束であることが保証されている,ということだ.他方で,遂行文ではない文,たとえば「その小説を読みます」(I will read that novel) のような文が約束するのに使われていると理解されたとしても,その約束も文の意味に暗黙に含まれている.どちらにしても,〔約束であるという〕効力を文の意味がすでに保証しているのだから,さらに余計な意味論の概念を増やす必要はないではないか,とコーヘンは結論づけた.
コーヘンの論証では,「その小説を読むと約束します」の発話はどれも約束になると仮定されている.だが,さきほど寝言の例で見たように,文も,あるいは文の発話ですらも,それじたいでは約束その他の言語行為の遂行に十分ではない.コーヘンと同様の考えから,サールはこんな所見を述べている.サールの用語でいう「首尾よい発話の条件」(conditions of successful utterance; 成功条件)のもとで,本気で文字通りに「その小説を読むと約束します」と発話したなら,それは約束となる (Searle 1968, p.407).サールはさらにここから推論して,一部の文では発語意味で発語内効力が決定されるのだと考える.だが,この最後の推論は論理の飛躍だ.すでに見たように,前述の文(「小説を読むと約束します」)の意味は,その文の発話の発語内効力を決定しない.そうではなく,約束を構成するかたちでその文が発話されたとき,文の意味の他に,話者が本気で言っているといったさまざまな文脈条件が満たされているといった要因が加わってはじめてその効力が決定される.
こう考えると,発語行為のなかには同時に発語内行為でもある場合があるという点ではサールに賛同しつつも,だからといって発語意味では発語内効力が決定しきれないというさきほどの観察を見失わなくてすむ.この過少決定の事実は,デイヴィッドソンの「言語的意味の自律性」説に含意されている.この説によれば,しかじかの言葉がひとたび慣習的な意味を獲得すると,その言葉は言語外のさまざまな用途に使えるようになる (Davidson, 1979).グリーンの主張によれば,デイヴィッドソンの自律性説には限定をつける必要がある.つまり,言語行為で使用されたときにその発話がかならず少なくとも1つの発語内効力をもつことになるような特徴をもつ文を認めるよう限定しなくてはならないとグリーンは言う (Green 1997).この限定版の自律性説に照らしても,「エッフェル塔に登ると約束します」について言えるのは,せいぜい,この文が約束をするのに使われる設計になっているということでしかない.ちょうど,普通名詞はモノを指し示す設計になっていたり,術後は指し示されるモノを特徴づける設計になってるのと同じことだ.後ほど(セクション6),効力は文の意味でないとしても意味要素ではあるという説を検討しよう.[5]
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次回 #3 につづく.
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