2018年4月29日日曜日

スタンフォード哲学事典の「言語行為」を訳読しよう #14

前回はこちら.ミリカンせんせい全然わからん.



---- ここから訳文 ----

4.2 生物意味論版の効力慣習説


ミリカンは,慣習について,「自然慣習」('natural conventions') という非常に〔いろんな存在の仮定を少なくすませる点で〕倹約的な構想をもっている (Millikan 1998).自然慣習は慣習の一種だと想定すると,言語行為はその性質からして慣習的だという説を擁護するのがこの戦略によってもっと容易になると見込まれる.ミリカンによれば,自然慣習を構成するのは前例のおかげで再生産されるパターンだという.[10] 特定の部分で同じ形式をもつ実体が先に存在していて,その実体から派生した形式をもち,しかも,その先にあった実体がその特定の部分でちがう形式をもっていたならきっといまある形式もまさにその部分でことなっていただろうとき,パターンが再生産されたという (1998, p.163).

コピー機のコピーはこうした規準に合致する再生産のひとつのかたちだ.網膜への刺激パターンから視覚野の刺激パターンへの網膜写像も,明らかにこれに合致する.とはいえ,ミリカンは網膜写像を慣習の一種として扱わないだろう.前例のおかげで持続してはいないだろうからだ.ただ,この論点は識別しにくい.ミリカンによる議論では,パターンが慣習的だと受け取られる条件を論じてこそいても,パターンが慣習的である条件は論じていないからだ.ミリカンはこのように書いている――
慣習的だと考えられるには,再生産されたパターンは,望ましい結果をもたらす内在的にすぐれた能力のおかげでも他の選択肢を知らなかったためでもなく,重要な部分で前例のおかげで増殖していると受け取られねばならない.(ibid, p.166) 
このようにミリカンは,あるパターンには先例としての重みがあると捉えられているという観点で,そのパターンに先例としての重みがあると特徴づけているように思える.この概念それじたいは明晰になっていない.その結果として,先例としての重みという概念はミリカンの説でぼんやりしたままとなっている.それでも,チェスのさまざまな慣習によってキングが王手をかけられているのはどんなときか決まり,できる手を打って王手から逃れさせることができるのだと言い,それと同様に,言語のさまざまな慣習によって A が B に p と伝えると B は p と信じることによってこれに反応するのだと言う.ミリカンによれば,聞き手のこの反応は隠れた内的な行為であって B 当人の随意的な制御下にはない.また,ミリカンによると,この反応は彼女の言う「自然の記号パターン」が学習される方法で学習されるのだという.たとえば,波が打ち寄せる音は近くに海岸があることを示していることを学習するのが,自然の記号パターンの学習だ.

ミリカンの説によれば, p を A が確言して B が p を信じるプロセスは,他に確言のあとにありえたプロセスと比べてそれ自体の性質としてすぐれているわけではない.だが,これは疑わしい.他に十分ありえる選択肢とは,どんなものだろうか? p に不審を抱くことだろうか? あるいは p の問いについて中立にとどまることだろうか? 左手のひじをポリポリ掻くことだろうか? こうした反応のどれひとつとして,言語を情報伝達手段として使うことの土台を弱めそうにはない.さらに言えば,信念形成が聞き手の随意的な制御下にないのだとしたら,いかにして伝達のこの側面が慣習的になりうるのかあやふやになる.網膜のパターンから同型のパターンが生じるときに視覚野の刺激パターンが慣習的でないのと同じだ.

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つづく.

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