この主題に関心をもつようになったきっかけは,2つの知的な目覚めだ――ひとつは1990年ごろのことで,進化心理学が人間本性を説明する力をもつようになったのに関わる.もうひとつは2000年ごろのことで,マーケティングが現代文化でもつ力に関わる.オハイオ州シンシナティで子供時代をすごし,ニューヨークのコロンビア大学で学士号をとったあと,1988年に,ぼくはスタンフォードで心理学の博士課程学生をやっていた.その年はまだ,進化心理学の創設をになった重要人物たちがサバティカル休暇でスタンフォードにきていた――レダ・コスミデス,ジョン・トゥービー,デイヴィッド・バス,マーティン・ダリー,マーゴウ・ウィルソンといった面々だ.友人のピーター・トッドと2人して,彼らのアイディアに興奮し,週に1回,彼らと顔を合わせては,ダーウィン理論が心理学を革新する秘められた途方もない力を学んだ.人間行動に関するあらゆることが,いきなり理解しやすくなったと思えた――もっと明快に,もっと単純に,もっと機能本位に,そして地球上の生命30億年の叙事詩に根ざして理解できるように思えた.心理学のあらゆることが以前よりも統合されるように思えた――たんに他の科学分野とつながりを強めるだけでなく,人文科学や日常生活ともつながりを強めるように思えた.人間行動を理解するには,我らがご先祖たちが直面していた生存と生殖のいろんな難題を考察するのが最善の策だという考え方にすっかり夢中になった.この枠組みの転換は,他に類を見ないほど行き届いていて完全なように思えた――まるで,永住の知的すみかを見つけたような気がした.これほど頭脳をゆすぶる衝撃なんて,もうこれっきりありえない――そう思った.
さいわいにと言うべきか,それはまちがいだった.10年ほどたって,ぼくは University College London に新設された「経済学習・社会進化研究所」で研究職をえた.そこで課題となったのは,進化心理学者たちとゲーム理論経済学者たちに共同研究をやってもらうことだった.数ヶ月にわたって研究者たちと個別に話したりグループで話したり,カンファレンスで話したりを積み重ねていった.これまでの職業人生でこれほどいらいらがつのる経験なんて他になかった.なにしろ,ぼくら心理学者はとにかく経済学者の言ってることがわからなかったし,彼ら経済学者もぼくらの言ってることを理解しなかったからだ.ぼくらは現実の人間に関心を寄せていたけれど,経済学者たちは理念上の市場に関心を寄せていた.ぼくらは好んで実験したけれど,経済学者たちは数学的な定理を証明したがった.ぼくらは人間本性に関するいろんな考えを公表したけれど,経済学者たちはいろんな動機がいりまじったパレート支配的な均衡選択に関する研究結果を公表した(「なんのこっちゃ」とは聞かないでほしい).
危機がおとずれたのは,1999年のことだ.ぼくがあれこれ手配して,人間の経済的な好みの起源に関するカンファレンスをロンドンで開いた.ぼくら心理学者は,人間のえり好みに関する実験を聞いて喜んでくれるとばかり思っていた.実験結果をふまえて,人間の経済行動のもっと性格で洗練されたモデルを発展させられるんだから,そりゃ喜ぶだろう――ところが,それが大間違いだった.経済学者たちは,いまだに「えり好みは購買行動であらわになる」という顕示選好説を踏襲していた.この学説では,消費者のえり好みは心理学的な抽象物だと考える――つまり,そうしたえり好みは隠された仮想状態であって,それが引き起こす購買行動をはなれて別個に計測・説明できないと考える.もしも,えり好みはアンケート調査やインタビュー調査やフォーカスグループ調査ではわからず購買行動をとおしてはじめてわかるのだとしたら,実際に消費者がとる支出パターンと別個にえり好みを研究したり,えり好みの由来する起源について至便をめぐらせたり,架空の製品に関する好みの市場調査を実施したりするのは,冗長ということになる.ようするに,この学説では,心理学は経済学に無関係なのだ.(これは,ダニエル・カーネマンが意思決定と好みに関する研究で2002年にノーベル経済学賞をとる前の話だ.) かくして,経済学者たちはしだいにカンファレンスから遠ざかっていって,心理学者の面々が傷ついた自己をなぐさめあう結末になった.経済学者たちがいなくなったあと,その場にまだ残っていたのは,これまで見たことのないへんな風体の人たちだった.
その人たちは,カンファレンス会場にいた学者たちとは様子がちがっていた.45くらいの中年だろうに,25くらいの若者みたいななりをしている.けったいな服を着て,変わった髪型をキメていた.しゃべりだすと,まるで激流がほとばしるように熱っぽく語る.もらった名刺をみると,「なんだこりゃ?」と面食らう肩書きに次々でくわす(「クールハンター」だの「熱狂調査部長」だの「ミーム採集担当」だの).マーケターたちだった.彼らは心理学に熱を上げていた.本気で,人々のえり好みに関心をそそいでいた――「えり好みはどこからうまれて,どう機能して,そこからどうやって利益を上げられるのか?」 彼らとしゃべって数時間がたったころには,新しい世界がひらけていた.
それから数年間,ぼくは手に入るかぎりありとあらゆる資料を読んでいった.マーケティングについて,広告について,PRについて,市場調査について,製品デザインについて,ブランド創出について,ポジション決定について,そして,消費者行動について.まるで,いままで静かに黙っていた「ビジネスへの関心」遺伝子がついに発現したかのようだった.(母方の祖父のヘンリー・G・ベイカーはシンシナティ大学で経営とマーケティングの教授をしていた.彼の5人の息子たちはいま民間の投資信託会社を経営している.) ぼくは,消費者行動の進化心理学コースをおしえはじめた.最初にやったのは2000年のことで,UCLA の客員教授で出向いたときに学部生たちに教えた.その次はニューメキシコ大学の大学院生たちを対象にしたコースで教えた.いろんな映画や小説を鑑賞しては,そこで描き出される消費主義ライフスタイルに興味をそそられるようになった.映画なら『マトリックス』『イグジステンズ』『アメリカンビューティ』『26世紀青年(イディオクラシー)』,小説ならチャック・パラニューク,ダグラス・クープランド,ニコルソン・ベイカー,J.G.バラード,どれをとってもそこに登場する消費主義の有様はわくわくものだった.マーケティング業界になにか絡んでいる知人には,誰彼なくマーケティングの話題をぶつけた――高校時代の旧友,親戚,お隣さん,地元のビジネススクールの教員などなど.この7年というもの,消費主義についてなにか新しいことを仕入れられそうな定期刊行物があれば次々に購読を申し込んだ:『建築ダイジェスト』『週刊自動車』『バッフラー』『高等教育新聞』『消費者レポート』『エコノミスト』『グルメ』『ハーパー・マクシム』『メンズ・フィットネス』『マネー』『PCゲーマー』『プレミエール』『ローリングストーン』『スタッフ』『ワイアード』『ワース』『Utneリーダー』『ヴァニティ・フェア』などなど.それに,他の刊行物もときおり手にとっては,いろんな記事や広告を集めた――『アクションゲーム至上』『アダルトビデオニュース』『ビール大全』『アトミックランチ』『冷凍食品の時代』『銃と弾薬』『編み物大好き!』『ホットボート』『ホームリビング』『至高のスパ』『月刊食肉処理』『モダン・ブライド』『モダン・ドッグ』『なれる!筋肉モンスター』『小売り新時代』『包装ダイジェスト』『ペット製品ニュース』『スポーツコンパクト車』『熱帯魚ホビイスト』などなど.こうした資料を読み込んでいくのは,読者が想像するほど楽しいばかりの作業ではなかった.あと,なにかいいアイディアはないかと,消費主義やビジネスに関する本もわずかながら100冊ほど読んだ.
そうしているうちに,マーケティングが現代の人間文化のありとあらゆるものの基礎にあるが見えてきた.ちょうど,人間本性のあらゆる部分の基礎に進化があるのと同じだ.著作者には出版エージェントがいるし,映画なら広報部門がある.政治家にはプレス担当秘書がついている.雑誌はたんに読者にいろんな情報を伝えるために出版されるわけではなく,その雑誌を読むような市場セグメントに向けた広告を――読者の注目を――広告主に売るのも目的としている.大衆文化のいろんな事物は,まず間違いなく,たまたま偶然や口コミだけで広まったりしない.誰の指図もないまま,誰かの頭脳から他の誰かの頭脳へとミームが伝播することなんてめったにない.どんなものだろうと,なんらかのマーケティング専門家が意図して世間の人々の関心のレーダー画面に出現する.
ようするに,マーケティングをとらえるべく注意をとぎすまさないと,みんなが当たり前と思って口にせずにいることを見過ごしてしまう.現代生活にとってマーケティングは当たり前すぎて,リビングルームになぜか象がいるのに,みんなお互いに「なんかしらんけどいるのが当然なんだろう」と思って黙ってるようなものなのだ.
最後のパラグラフは意訳で,ほんとうは "elephant in the living room" という慣用表現を使ったもっと簡略な文で終わっている:
I realized, in short, that if you weren't tuned in to marketing, you were missing the elephant in the culture's living room.
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