たとえば,水道の蛇口をひねってでてくる水は,利益の小さいコモディティだ(アルバカーキだとだいたい1ガロンあたり0.0006ドル).他方,「グラソー・スマートウォーター」は,利益の大きいブランド製品だ(34オンスのボトル1本で 1.39ドル,1ガロンあたりなら 5.20ドルもする).「スマートウォーター」というと,なんだか魔法みたいに知性をブーストするフランスアルプス産の秘薬みたいに聞こえる.そのおかげで,ふつうの水道水の870倍もの値段で売れる.実際には蒸留水に電解質(石灰石から得られるカルシウムと海水から得られる塩化マグネシウムを少々)を加えただけの水であるにも関わらずだ.ただ,コカコーラ社が2007年にグラソーを41億ドルで買収したあとは,ほぼ裸になったジェニファー・アニストンのイメージで広告展開するようになった.つまり,ごくありきたりの水に石灰石と海水といい感じのボトルを用意して,これにアニストンの美貌と知名度をあわせれば,利益のあがるブランドができあがるわけだ.
このように,消費者の欲求から利益をあげるべくマーケティングで運営されている世界は,「コモディティ化」によって「物質主義的」世界になることを頑として拒むことになる.その逆位に,そうした世界は,製品も消費者もなんら物質的な性質を必要としない仮想現実にやすやすと変質しうる.マーケティングを論理的に詰めていった先にある世界は,がちがちの物質主義ではなく,『マトリックス』や『セカンドライフ』のような世俗的な非物質主義だ.
一方,マーケティングはもうちょっと差し迫った問題もつくりだす.民主主義と同じように,マーケティングは知的・文化的エリートが大衆に対して上から目線の態度をとるよう強いる.人々がのぞむものを提供する企業や国家をいつでもエリートが好むとはかぎらない.消費者がのぞむものといえば,スイーツだの,脂肪や砂糖たっぷりの食べ物だの,タバコだの,ビールだの,マリファナだの,バイクだのハンドガンだの,ポルノ動画だの,売春婦だの,豊胸手術だの,バイアグラだの,リアリティTVだの,型にはまったアニメだの,そういうものだろう.同様に,みんなが投票すると,もしかして死刑や学校での礼拝や焚書や民族浄化やファシズムや『アメリカン・アイドル』が人々ののぞみということにもなりうる.誰もが投票権を持つことで成り立つ大衆民主主義と,エリートたちのユートピア的な構想にもとづく共和国のちがいが,プラトンにははっきりと見えていた.エリートにとって,マーケティングの大衆迎合主義は,ぞっとする将来像だった.そこで,プラトンはマーケティング指向を社会組織の土台にすることを拒絶した.マーケティングを政治に当てはめた民主主義も,彼は却下した.プラトンが考える理想の慈悲心あふれる独裁者,哲人王は,フォーカスグループなんて集めないし,市場調査なんて実施しないし,政策の決定に選挙を実施することもない.「真の長期的な利害を庶民が理解できるなどと信頼できるはずがない」「文明国の生活に必要な行動と庶民の原始的な本能は食い違っているのだから,開明的な少数派が無知な多数派を管理しなくてはならない.その方がずっとよい結果になる」とプラトンなら考える.孔子も同様の見解をもっていた:皇帝が国家を支配すべきなのと同様に,家父長が一家を支配して自然の無秩序状態に対して文明的な秩序を強いねばならない,と孔子は考える.
このプラトン=孔子派の伝統は数千年にわたってヨーロッパとアジアの政治理論を支配した.今日でも,この伝統を目にすることがある.人々が個々人で買えない・買おうとしないサービスを国家が徴税して提供すべきだとエリートたちが論じるときには,きまってこの伝統が顔をのぞかせている.そうした国家が組織して提供するサービスが理にかなっているように思える場合もあるし(道路,消防署,医療,BBC),そう思えない場合もある(農業補助金,虚偽によってはじめられる戦争,誰も渡らない橋).また,しかじかの製品や行動を禁止すべきだとエリートたちが論じるときにも,プラトン=孔子の理想が一役買っている.(エリートの言い分がもっともな場合もある:銃は誰もが自由に所持できて当然だという極論の持ち主たちであっても,地元の銃器取扱店でFIM-92スティンガー地対空ミサイルの販売を許可すべきだとまで言う人はまずいないだろう.)
民主主義と同じくマーケティングも,思い上がりに抗し,権力に抗し,理想主義に抗する力を秘めている(が,利用されないままの場合もよくある).原理上,マーケティングはエリート主義的な進歩の理想像にとってかわりうる.その基礎となるのが,ごくふつうの人間の欲求を満たすべく形成された世界という現実を大衆がそろって支持しているという幻想だ.過去数千年におきたさまざまな革命のなかでもっとも意義の大きかったものは,生産能力を拡大した技術革新や,エリートのいろんな理念に活力をもたらす科学的な考え方だったのだと素朴に主張して,マーケティング革命を矮小化したくなる誘惑はある.マーケティング革命を無視する方を選ぶとしたら,その理由は,技術のもたらす果実を管理する力をぼくらエリートの理念が失ってしまう世界におののいているためだ.(余暇があって教育があって本書を読むような趣味を持ち合わせている人は,当然,エリートの一員だ.) マーケティングは,人間の果てしない性欲や食欲や怠惰や憤怒や強欲や嫉妬や自惚れのために果てしない生産能力を利用する恐れがある.マーケティングが予感させる世界は,『愚昧支配(イディオクラシー)*』とシナボンとスーパーボウルの世界だ.マーケティングは,人間社会を解体して60億みんなが独りよがりなブロガーへとバラバラにする恐れがある.
こういう未来像をエリートが畏れるのも,権力を堅持しておくための自己欺瞞的な理由付けにすぎないのだろうか? 市場調査にもとづく経済を恐れる気持ちは,プラトンが一般選挙権による民主主義を恐れたのと同じく,同じ人類の仲間たちに対する軽視が土台になっている.エリートたちがマーケティング革命を認めるのをいやがるのは,この軽視を認めるのがいやだからだ.マーケティングが過去2000年で最重要の革新なのはなぜかと言えば,本当の経済的な権力を民衆にもたらすのに成功したからだ.たんに富を再分配する権力,社会のケーキをいろんな人たちに切り分けるだけではない.マーケティングは,ぼくらの生産手段を使って自然界を人間のいろんな熱情のための遊び場に転換する権力だ.
*正式な邦題は『26世紀少年』だけれど,ここでは原題に沿っておく.
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