ミラー先生の『消費』のサンプル訳をつくってみよう (23)
つづき:
実業界の内部でも,若い世代の経営者の大半はマーケティングを実践的な水準で理解しているものの,その彼らにしても,文化的・経済的・社会的・心理的な革命としてマーケティングを語るすべを知らない.ビジネススクールでそういう切り口で教わったりしないからだ.同様に,ビジネス系ジャーナリストたちもマーケティング革命を大きくとりあげて世間で広く語られるようにはしていない.〔20世紀末から21世紀序盤の〕インターネットの「ニューエコノミー」がどうしたとかといった話に世間の注目を集めたのとはおおちがいだ.評論家たちは,いまだにいまの社会が大量生産による産業時代から大量娯楽の情報時代の移行期にあるかのような話に終始している.
魚が水を意識しないのと同じように,ぼくらは《マーケティング時代》に暮らしていながらそのことに気づいていない.製品が物質的か文化的か,販売されている場が店頭かオンライン化は大して問題にならない.大事なのは,製品を抗争し,設計士,検証し,生産し,拡販する方法が体系的で,しかも製造業者の都合よりも消費者の好みに基づいているという点だ.かつての「ニューエコノミー」や「ウェブ2.0」や「ソーシャルネットワーク・マーケティング」は,たんにこのマーケティング革命の最新段階にすぎない.
この革命を理解するにはどうしたらいいだろう? 考える手がかりになる類例を歴史に探すと,2つ見つかる.民主主義は,マーケティングの概念を統治に当てはめた例だと考えられる.アメリカ革命もフランス革命も,マーケティングの概念を政治にもちこんだ例だ.しかも,マーケティングが実業界で足がかりをえるはるか以前にこれをやってのけた.生産指向の国家は,納税者たちに「キミたちは国のためになにができるか」とたずねた.一方,マーケティング指向の国家は「有権者のみなさんのためにこっちができることはなんでしょう」とたずねる.市民たちは投票を要求したので,じぶんたちがもとめる国家のサービスがどういうものかを政府に教えられる.これも,消費者を対象にしたフォーカスグループが製造業者に「どんなモノがほしいですか」とたずねられるようになるはるか前のことだ.「代表なくして課税なし」が登場してから長く時代が下ってようやく「市場調査なくして利益なし」が現れた.
こうした政治革命以前にも,宗教改革がマーケティングの洞察を宗教に当てはめている.マルティン・ルターもジャン・カルヴィンも,組織された教会を通じて,坊主たちの金銭的利害関心ではなく信者たちの情動的な欲求を満たした.豪華な大聖堂のなかで死んだ言語でなされるコスト高んば儀式をやたらめったらつくりだす生産指向の教皇制度に,彼らは飽き飽きしていた.キリスト教には,現在3万もの宗派がある.これこそ,宗教サービスをもとめる多様な消費者たちがいるときに効率的な市場の細分化がもたらす成果にほかならない.同様の転換は他の宗教でも起きている.仏教では生産指向の小乗仏教から市場志向の大乗仏教への転換があったし,ユダヤ教では正統派から改革派への転換があった.実業界のマーケティング,政治の民主主義,宗教改革に共通している分母とは,サービス提供シュアからサービス消費者への力の移転だ.
マーケティング革命はいいことなんだろうか? いい面に目を向ければ,マーケティング革命は黄金時代を約束してくれている.強固な実証研究にもとづいて人間の幸福を最大化すべく社会的制度と市場が体系的に組織される世の中をだ.ちょうど科学によって知覚に生じたのと同じことを,マーケティングは生産にもたらすと約束している:科学と同じくマーケティングも,直感やひらめきを経験的な事実にてらして検証する.市場調査が使う実証的なツールは実験心理学が使うのとほぼ同じだ.ただし,市場調査では研究の予算規模がちがうし,質問もよく定義されているし,もっと代表的な人々をサンプルに使うし,社会的な影響だって大きい.理想では,マーケティングの実証主義はロジャーズの心理療法のように機能する.つまり,セラピストは患者が語る心配をそっくり復唱し,反芻してみせる.マーケティングは,ぼくらの姿を映し出す鏡をみせてくれる.のぞきこめば,そこにはぼくらじしんの信条や欲求が映し出されている.おかげで,そうした信条や欲求を認識し,記憶し,評価し,変革できる.ホンモノの鏡が発明されたとき,人々はそこにうつる我が身の姿をみて,以前よりはるかに正確かつ客観的に外見や装いを工夫するいろんな方法を試しては,「これでいい」「これはいけない」と判断する力を得た.化粧や髪型や出で立ちをあれこれ試してどうすれば見栄えがいいかを判断できるようになった.マーケティング革命も,これと同じようにぼくらに力を与えてくれる.ただし,その時間の尺度はもっと長い.マーケティング革命により,みんなは製品選択をとおしてじぶんのいろんな特徴を見せびらかすあれこれの方法を取捨選択できるようになった.いろんなライフスタイルを試してみては,その結果を経験できるし,もしかして不満に感じたら自分たちの消費者としての好みを変えたりもできる.
他方,わるい面に目を向けると,マーケティングは仏陀にとって最悪の悪夢でもある.仏陀にとって,マーケティングなんぞは,途方もない幻想,虚妄のベールのニセ科学が数十億ドルもの広告キャンペーンに支援されたしろものだ.マーケティングは,「欲求がいずれ満足につながる」という妄念を世間にはびこらせる.心が澄み渡った意識の天敵だ.意識はみずからだけで満ち足りているのであって外界にもとめるものなどほとんどありはしないのだから.
問題は,マーケティングが物質主義を促進する点ではない.その反対だ.マーケティングは自己愛におぼれ主観的な快楽と社会的地位とロマンスとライフスタイルにもとづくニセ精神主義を促進する.製品の物理的な性質よりもその製品で心にひろがる連想の方が重要となるのだ.これこそが,広告とブランド確立のねらいだ――消費者のいだく欲求・渇望と製品とのあいだに連想をつくりだすことで,たんなる物質的な形式で裏打ちされる以上の値打ちがその製品にあるように消費者に思わせる.実際,マーケティングはあらゆる手を尽くして物質主義を避ける.というのも,消費者が客観的な物質的特徴とコストだけにもとづいてあれこれ製品を比較して回ったりしたら,製品そのものはどこにでもあるモノに還元されてしまう――そして,どこにでもあるモノを売ったところで,競争きびしい市場では大層な利益を上げられない.
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