つづき:
【消費主義をめぐる両義的な感情】
Consumerist Ambivalence
分別のある人ならたいていそうであるように,ぼくもマーケティングと消費主義について相反する感情を抱いている.どちらも,その力たるや驚嘆せずにいられない.神々のごとくに,人々はこれに崇敬の念でひざまづき,死の恐怖を覚える.消費資本主義は,現代生活ならではの胸ときめくものも,おぞましいものも,そのほぼすべてを産み出している.服を着たり,雨露をしのぐすみかを得たり,危険から逃れたり,教育を受けたり,医療を受けたり,旅をしたりといったことをきらう人はほとんどいないし,こうしたことが環境にやさしい原始共同生活のユートピアで失われれば,たいていの人は恋しがるだろう.搾取されたり,仕事漬けになったり,債務が雪だるま式にふくらんだり,汚染されたり,軍産複合体が栄えたり,企業がカルテルを結んだり,汚職がはびこったり,疎外されたり,大不況におちいったりといったことを好む人はほとんどいないし,この世からなくなって恋しがる人もめったにいないだろう.それに,個人の好みもさまざまだ.消費資本主義でぼくが気に入っているのはこんなものたちだ――アーモンドクロワッサン,トーリ・エイモスのコンサート,テルライドでのスキー,バート・プリンスが設計した住宅,BMW 550i,プロヴィジル,「アウトカースト」と「ラジオヘッド」の曲満載の iPod,いまタイピングに使っているマイクロソフトのエルゴノミック・キーボード.なによりあきれ果てるのが――ラスベガス,モール・オブ・アメリカ,ファーストフード,ケーブルテレビ,ハマーの自動車,そしてぼったくり価格の植物プランクトン.さらに,ゾクゾクすると同時にあきれ果てもするものだってある:フラペチーノ,ビジネススクール,雑誌の『In Style』,グロック拳銃,ジェリー・ブラッカイマー映画,ドバイ空港の免税店,ダイエット・コード・レッドマウンテンデュー,現代美術市場,バンコク.読者もそれぞれ思い思いのリストをつくって,自分なりに消費主義をめぐる好悪の両義的な感情の出どころに思いをはせてみるといい.
ざんねんながら,消費主義について書かれた文章の大半は,純粋な愛か純粋な嫌悪のどちらかで,評価にバランスや微妙な陰影がない.一方には,消費主義支持の論がある:世界貿易機関 (WTO),世界銀行,世界経済フォーラム;英『エコノミスト』誌や『ウォールストリートジャーナル』;マーケター,企業ロビイスト,リバタリアン.もう一方には,反消費主義の活動がある:グリーンピース,アースファースト,ナオミ・クラインの『ブランドなんか,いらない』(No Logo),『アドバスターズ』誌,『ニューアーバニズム』誌,断捨離やミニマリズム [voluntary simplicity],「スローフード」運動,ウェアトレード運動,無買日 (Buy Nothing Day),「真の費用」経済学.
どちらの極論も…極端だ.どちら側も,もう何十年もお互いに怒鳴り合いながら相手に聞く耳を貸さずにいる.本書の目標は,消費主義の費用便益分析をやることでもなければ,単純にわりきったよしあしの判断をすることでもない.そうではなく,人間本性と個々人のちがいという生物学的な現実のありように基づいて消費主義を理解することによって,消費主義賛成派も反対派も,もっと歩み寄れるすぐれた共通の土台を見つけられたらと思っている.たんに双方それぞれに善意でいい論点を突いているのだと認識するだけでは足りない.現代の論争から一歩ひいて,できるだけもっと広範で深い視座からこれを評価しなおす必要がある――たんに文化をまたいだ歴史的視座から見るだけでなく,種をまたいだ進化論的な視座からも見る必要がある.これで第1章はおしまい.
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