2.2 哲学
当然ながら,言語哲学や言語学,さらに表現を重視する論理学でも,タイプは重要な役割をはたしている.特記すべきは,文タイプの意味とトークンを使った話者意味の関係をめぐる論争だ(この関係は Grice 1969 でとくに顕著に姿をみせている).だが,タイプとトークンの区別は,これ以外の哲学分野でも目立ったはたらきをしている.心の哲学では,この区別から,心の同一性理論に2つのバージョンが生じている(それぞれ Kripke 1972 で批判されている).同一性理論のタイプバージョン(Smart (1959) や Place (1956) らが擁護しているバージョン)では,心の出来事/状態/プロセスは,物理的な出来事/状態/プロセスのタイプと同一だと考える.この説によれば,たとえば雷の正体が放電であるのと同じように,痛みの正体も c繊維だということになるかもしれないし,意識の正体も秒間40サイクルの脳波だということになるかもしれない.このタイプの見解では,試行や感情は神経学的なプロセスであって,こうしたプロセスがないときには思考はありえないと考える.トークン同一性理論(Kim (1966) や Davidson (1980) らが擁護する説)では,心的出来事のどのトークンをとってみても,それはなんらかの物理的出来事だという点は維持する一方で,タイプの合致が必ず予想されるという点は認めない.このため,たとえばヒトの痛みは c繊維の刺激だと判明したとしても,ヒト以外の生命体では c繊維がなくても痛みはあるかもしれないと考える.また,もしヒトの意識が秒間40サイクルの脳波だと判明したとしても,ひょっとするとそういう脳波がないアンドロイドが意識をもつかもしれない.
美学では,一般に美術作品そのもの(タイプ)とその物理的な具現(トークン)とを区別する必要がある.(たとえば Wollheim 1968, Wolterstorff 1980, Davies 2001 参照.) 『モナリザ』のような油絵の場合にはトークンは1つだし,もしかすると1つしかありえないかもしれないが,他の美術作品には〔1つのタイプに複数のトークンという区別が〕当てはまるように思える.1つの鋳型からつくりだされる彫刻は2つ以上ありえるし,1枚の青写真からつくりだされる壮麗な建築は2つ以上ありえるし,フィルムのコピーは2枚以上ありえるし,1つの楽譜に対してその演奏は2つ以上ありえる.ベートーベンは9つの交響曲を書いた.ベートーベン本人は交響曲第9番の初演を指揮したけれど第9を聞くことはついになかった〔すでに耳が聞こえなくなっていたので〕.他方,ベートーベン以外の我々はみんな第9を聞いたことがある――つまり,そのトークンを聞いたことがある.
倫理学では,しかじかの行為は正しい/まちがっていると言われる――だが,その行為タイプの話だろうか,それとも,行為トークンだけの話だろうか? Mill (1979) から Ross (1988) にいたるまで,大半の倫理学者の考えでは,道徳的行いの特質は普遍化可能性にある.つまり,特定の行為が正しい/間違っているのは,同様の状況において他の誰がやってもその行為が正しい/間違っているときにかぎられる,と考えられている――言い換えると,その行為が正しい/間違っている行為タイプであるときにかぎられる.しかじかのタイプの行為は正しく,しかじかのタイプの行為はまちがっているのであれば,無効化できない倫理的原理があるかもしれない(そうした原理を言葉で規定するのがどれほどややこしくても,そもそも言葉で規定できようとできまいと,原理があるかもしれない点は変わりない.) だが,倫理学者のなかにはこう考える人たちもいる:「なにがどうなろうと成り立つ一般的倫理的原理はない――そうした原理が間違った行為をなすべしと勧めてしまう状況は必ず見つかる.」 こうした倫理学者たちは,さらに進んで,行為のタイプではなく個別の行為(行為トークン)だけが正し医者線間違っていると付け加えることもある.たとえば Murdoch 1970 や Dancy 2004 を参照.
セクション 2.3 につづく.
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