2017年8月10日木曜日

森山「パフォーマティヴ」論議の主眼と論拠はなんだろう

はぁい,パフォーマティブさんだよ.

こんにちは.今日も引き続き,森山至貴『LGBTを読み解く』を素材に使って哲学もどき文章で練習問題をやっていきましょう.

さて,前回のポストでは,「パフォーマティヴ」を解説したセクションについて,次の問題を出していました:
【問題】:このセクションで紹介されている議論の主眼と論拠を抽出してみましょう.
著者による「パフォーマティヴ」解説は,そもそも用語の意味を暗黙のうちにズラして議論を進めているという大きな欠陥を抱えているのですが,そこはもうわかったからよしとして,とにかくこのセクションで言おうとしている主眼とそれを支える論拠を整理して協調的に文章を読む練習をしてみましょう.

はじめにお断りしておきます:書いている自分でもうんざりする内容となっております.「あっ,ウザいなこれ」と思った方は,途中をすっとばして最後の「かなしいまとめ」に飛んでください.


言語の「意味」からジェンダーへの類推


この問題を考えるには,著者の文章が「パフォーマティヴ」の話をどう展開しているのか,話のつづきをのぞいておく必要があります.オースティンやデリダの「パフォーマティヴ」論の紹介を経由して,次のセクションはこう続いています:
繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまうという言語のパフォーマティヴな特徴は,ジェンダーにも当てはめられるとバトラーは考えました.(太字強調は引用者によるもの)
言語表現の「意味」について言えることが,ジェンダーにも同様に当てはめられるという,類推(アナロジ)が述べられています.そして,両者の共通点が「パフォーマティヴな特徴」や「パフォーマティヴィティ」と呼ばれているものです.したがって,オースティンやデリダを紹介しているセクションでの要点・主眼は,言語の「意味」にしかじかの「パフォーマティヴな特徴」がある,ということですね.それを受けて,続くセクションで「ジェンダーにも同様の特徴がある」と議論を展開するわけです.

そこで,読者のぼくらとしては,「パフォーマティヴな特徴」とされるものがいったいどんなもので,それが確からしいとわかるどんな論拠が提示されているのかを抜き出せば議論の勘所がつかめます.

「意味」の「パフォーマティヴな特徴」ってなぁに?


では,あらためて,言語の「意味」にみられるとされる「パフォーマティヴな特徴」とはどんなものだというのでしょうか?

いちおう前回のポストで,著者のいう「パフォーマティヴ」がおおよそどんな意味なのかをまとめておきました:
パフォーマティブ2: 辞書的でない・安定していない意味の伝達(に関わるもの)
これをもう少し細かくみておきましょう.

著者の論述では,まず,同じ語や句がいろんな文脈で繰り返し使えていろんな意味が伝達されることを指摘しています.その際に提示している例示は2つ:ひとつは,同じ名詞句がいろんな指示対象をもちうること;もうひとつは,言語表現をいろんな場面でいろんな目的のために使えるということです:
私たちは何度でも「猫」という言葉を使えますが,その文脈はいつも違います.さっきはミケ,今度はタマというように,指している「猫」が違うだけではありません.いつどこで誰に向かって発するか,呼びかけなのか質問なのか独り言なのか,それらの要素が全て一致することは絶対にないのです.
著者の話がとても面白いのは,このことをいきなり意味の「綻び」につないでしまうところです:
であるならば,語や句は,その意味が異なる文脈に流用されてしまうつまり安定した辞書的な意味が綻びることによってむしろ成立可能となっているのです.(太字と下線は引用者によるもの)
どういう理屈なのかは不明ですが,ともかく著者の頭のなかでは,「異なる文脈」で使用されることが「辞書的な意味が綻びること」に等しいこと,あるいは綻びに直結することのようです.

さて,著者がいう「辞書的な意味が綻びる」とは,おそらく,辞書的な意味と異なる意味がなんらかの文脈で伝達されることでしょう.続きのセクションで,このように述べています:
繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまうという言語のパフォーマティヴな特徴は,ジェンダーにも当てはめられるとバトラーは考えました.(太字強調は引用者によるもの)
ここでひとつ補足したいのが,「~によってむしろ成立可能となっている」の解釈です.というのも,「つまり」の前後のどちらとつなげるかによって,2通りに解釈できるからです.
  • 解釈1: 「語や句は,その意味が異なる文脈に流用されてしまうことによってむしろ成立可能となっているのです.」
  • 解釈2: 「語や句は,安定した辞書的な意味が綻びることによってむしろ成立可能となっているのです.」

解釈1 の方は,ごく自明な話のようにも受け取れます.著者も強調しているように,語や句はいろんな文脈でなんどでも使用できますし,一度きりしか使用 *できない* 語や句というのはないでしょう.じっさい,この箇所の直前で著者はこう強調しています:
一度使用されたきり二度と使用されない「使い捨て」の語や句を想定しても(…)そもそも無意味です.
語や句は繰り返し使用されるという話と素直に整合するのは,解釈1 のように思えます.

他方で,解釈2 は不思議な主張です:通常の意味・用法とちがうものが伝達されることで語や句が成立できる,という話になってしまいます.それでは語や句の「通常の」意味・用法はどうやって生じるというのか,理解できません.しかし,著者が挿入している「むしろ」とよくなじむのは自明な話ではなくて意外な話でしょう.

読者としては実に困惑する箇所なのですが,さしあたり,どちらの解釈を著者が意図しているかを特定するにはおよびません.どちらの解釈でも,語や句がいろんな文脈で繰り返し使用されるという箇所は共通しています.この共通部分は,著者の主張に含めて問題ないはずです.

以上から,次のような論証の骨格を想定できます:
  • A. 同じ語句はさまざまな文脈で繰り返し使用される.
  • B. すると(なんらかの理由で),安定した辞書的な意味(通常の意味)と異なる意味が伝達される(=辞書的な意味が「綻びる」). 
  • C. (A) または (B) によって,語や句は成立可能となっている.
これが,言語における「パフォーマティヴな特徴」として著者が考えているだろう内容であり,このセクションの要点です.

論証の骨格をさらに限定していく


しかし,さきほど補足したように,上記の論証のうち (C) は 2通りにあいまいです.読者としては実に困惑するところなのですが,さしあたって,著者がどちらを意図しているか限定する必要はありません.まず,上記の論証を,2つのバージョンにわけてみましょう.

バージョン1:
  • A. 同じ語句はさまざまな文脈で繰り返し使用される.
  • C. (A) によって,語や句は成立可能となっている.

バージョン2:
  • A. 同じ語句はさまざまな文脈で繰り返し使用される.
  • B. すると(なんらかの理由で),安定した辞書的な意味(通常の用法)と異なる意味が伝達される(=辞書的な意味が「綻びる」). 
  • C. (B) によって,語や句は成立可能となっている.

バージョン1 は一見すると自明な議論のように思えます――語や句が繰り返しいろんな文脈で *使える* という話であれば,誰も異論はないでしょうが,同時に,わかりきったことでもあります.

しかし,実際に繰り返し使用されて,*そのあとに* 語や句が「成立する」というのであれば,おかしな話です.たとえば新語が登場するときには定義によりそれまで誰も使用していないのですから繰り返し使用は前提になりません.たとえば,『サルでも描けるまんが教室』で「イヤボーン」という言葉が登場したとき,それまで(少なくとも読者は)誰もこの言葉を聞いたり読んだりしたことはなかったでしょうが,それでも語として「成立」していましたし,それどころか,はじめて触れた言葉であるにも関わらず,これが名詞であることすら大半の読者にはすぐにわかったはずです.こうして「イヤボーン」という名詞に触れた読者のなかには自分でも「イヤボーン」を使ってみた人も大勢いて,そうやって『サルまん』というマンガの外にまで使用事例が広まっていったと考えられます.こう考えると,バージョン1 は非常に疑わしい議論ですね.

バージョン1 をこの苦境から救うには,2つの道筋があります.ひとつは,語句が繰り返し使用 *できる* という自明な主張に変えること.

バージョン 1-1:
  • 同じ語句はさまざまな文脈で繰り返し使用できる.
しかし,これはばかげています.

もうひとつの手は,「成立する」を語や句としての資格を満たすというような意味でなく,たとえば「普及する」「当該の言語に定着する」という意味に変えてしまうこと.そうすれば,バージョン1 は次のような無害な議論になります:

バージョン1-2:
  • A. 同じ語句はさまざまな文脈で繰り返し使用される.
  • C. (A) によって,語や句はその言語に普及しうる
しかし,無害になったのはいいのですが,どうでもいい内容ですし,「パフォーマティヴ」論議のジェンダーの部分にまったくつながらなくなってしまいます.したがって,このバージョン1-2 も放棄するしかありません.

以上から,どちらにせよバージョン1 の解釈には見込みがないとわかります.だとすると,消去法であとはバージョン2 しか残りません.

では,バージョン2 はどう評価できるでしょうか.

▼ バージョン2(再掲):
  • A. 同じ語句はさまざまな文脈で繰り返し使用される.
  • B. すると(なんらかの理由で),安定した辞書的な意味(通常の用法)と異なる意味が伝達される(=辞書的な意味が「綻びる」). 
  • C. (B) によって,語や句は成立可能となっている.
このバージョンを評価するには,(B) の部分が大きな問題となります.疑問点を列挙しましょう:
  • 「安定した辞書的な意味」「通常の用法」とはどのようなものか.
  • そうした辞書的意味と異なる意味とは,どのようなものか.
  • (A) の繰り返し使用は,*いったいどのようにして* (B) につながるのか.
そして――森山の文章には,こうした疑問に答える箇所がまったくありません.ゼロです.B の部分を支持する論拠もありませんし,それどころか具体的な例示すらありません.あっけなさすぎて困るのですが,ないものはないのです.

それでも,このバージョン2 ならば,後に続くジェンダーの話といちおうつながります.
繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまうという言語のパフォーマティヴな特徴は,ジェンダーにも当てはめられるとバトラーは考えました.バトラーは,言語のコンスタティヴな意味とされるものは,絶えずずれを生みつつ反復される,すなわちパフォーマティヴに産出される言語使用の最大公約数的特徴にすぎない,と考えます.しかし,この「意味」はあたかも実際の言語使用の前から存在している,すなわち辞書に先に書かれてあったかのように見えるのです.バトラーは「男らしさ」「女らしさ」もまた,まさにそのような,あらかじめ決まっていたかのように見えるものにすぎないと考えました.(太字強調は引用者によるもの)

かなしいまとめ


以上から,「言語は綻びによってこそ可能になる」セクションの「パフォーマティヴ」論議について,次のようにまとめられそうです:

  1. 言語の「意味」に見られる「パフォーマティヴな特徴」とは,上記バージョン2 のような骨格で言い表される事柄だ.
  2. しかし,その言わんとすることには不明瞭な箇所があり,著者はこれを十分に言葉をつくして述べていない.
  3. また,主張のかなめとなるポイントを支える論拠はまったくない.


このようなかなしい結末になってしまうのも,ひとえに,言葉をいろんな文脈で使用すること,同じ語句がさまざまな意味をもつことについて,著者がなんにも具体的なことを述べていない(もしかすると考えてもいない)ためです.

…じゃあ,いっそ,こちらで考えてあげましょう.言葉の意味とはどういう性質をもったものであり,文脈とどのように関わるのか,その話をこっちから売り込んでやるまでです.できることなら,さらに進んでジェンダーとの類推にまでなにか提案できればステキです.

少し予告をしておきましょう:
  • 語句は同じ【意味論的な意味】に基づいてさまざまな文脈で異なる【語用論的な意味】または【発話意味】を伝達できる.
  • また,語句の意味に関しては,【I-概念】と【E-概念】を区別すべきだ.
  • ぼくらは語句の意味 *について* の【共有知識】に影響を及ぼしうる.

でも,その話はまた後日.

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