さて,伝達に特有の意図された効果がどういうものか突き止めたところで,この意図そのものをグライスが当初どう特徴付けていたか,という話にもどれる.「この意図の認識によって聞き手にある効果をうみだす」という意図であると記述したあと,グライスはこう註記している.「ここには再帰的パラドクスがあるように見えるが,実はそんなことはない」(1957/1989: 219).なぜそう見えるかと言えば,意図が自己言及的だからだ.さらに,聞き手の推論にはなにかッ循環しているものがありそうに思える.なんといっても,聞き手は相手がそう意図しているという想定に部分的にもとづいて,話し手の意図を同定することになるのだ.だが,これにはほんとうに背理的なものがあるんだろうか?
再帰的意図は,ある意図が別の意図を参照し,その意図もまた別の意図を参照するという数珠つながりの意図とはちがう.この点を理解しなかったために,多大な混乱が生じることになった.グライス当人ですら,混乱した.それどころか,さきほど引用したパラグラフの前半で,グライスはべつの定式化をしている.その定式化では,話し手は「自分の初wがそう意図されているものとして認識されるようにも意図していなければならない」とある(1957/1989: 219).Grice (1969) では,従前の定式化を改良しようと試みて,はっきり言明して再帰的意図を放棄し,かわって反復的な意図を支持している.グライスを批判した Strawson (1964b) もしかり,そして擁護した Schiffer (1972) もしかりだ.彼らによりいっそう複雑な定式化は,それぞれ先行する定式化に対する反例にうながされてなされたものだが,まず,あることを伝えようとする意図からはじめて,その最初の意図が認識されるようにする意図がきて,さらにその意図が認識されるようにする意図がくるとつづいて,無限につづきうるようになっている.グライスがやがてこうした着想全体を捨てて,かわりに必要とされるのは「コソコソした意図」("sneaky intention") の不在だ,と述べるに至ったのもムリはない (1989: 302).自己言及的な意図〔という着想〕を固持すれば,この複雑さも無限後退の恐れも避けられる.上記のように意図される効果が適切に特徴付けられると仮定すれば,グライスの当初の着想にはなにもまちがいなどなかったからだ.この着想は,グライスが懸念した再帰的パラドクスには至らない.
グライスのもともとの定式化に再帰的パラドクスがあるかのような外見は,「この意図の認識によって」(by means of the recognition of this intention) というキーフレーズから生じる.このフレーズを見ると,話し手を理解するためには,聞き手はなんらかの種類の循環的な推論を行わなくてはいけないかのように思えるかもしれない.まるで,聞き手がすでに話し手の伝達意図がどんなものか知っていなくては,その意図が認識できないかのように聞こえる.聞き手は,話し手があることを伝えようと意図しているという前提から話し手がまさにそのことを意味していると推論するわけではない.そうではなくて,どんな話し手もそうであるように,自分が相手している話し手も,なにかを伝達しようと意図しているという推定 (presumption) をもとに,聞き手は推論している.聞き手は,特定の意図の内容ではなくて,この一般的な事実を考慮に入れて,その意図がどういうものかを突き止めようとするのだ.
(Kent Bach, "Saying, meaning, and implicating," The Cambridge Handbook of Pragmatics, 2012. pp.54-55.)
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