訂正 様々な大学の「語用論)=pragmaticsは「そもそも論」や「なんぞや論」が多く、その日から役立つものを見たことがありません。これこそ、教える側が一度は、会話での appropriacy, diction(状況に見合う妥当性、言葉の選択)を試されたことのない証拠。— 日向清人 (@hinatakiyoto) 2017年9月2日
大学で教える語用論が「そもそも論」になりがちだとしたら,語用論はそもそも論だからだよ.
「教える側が」云々は,語用論の教え方や教える内容の選択とは関係のないただのいやみだよ.だって,場面に合わせた言葉の選択(この場合はおそらく第二言語としての英語のそれ)にとても敏感な人でも,協調の原理と推意の理論を教えるとすれば,やっぱり「そもそも論」をすることになるんだよ.
そのうえで,「べつに研究者やマニアになろうってわけでもないのになんで語用論を学ぶの?」って問いを考えるのがいい.英語などの第二言語を中級・上級をめざして学ぶ人たちにかぎらず,そうしたことと無縁の人たちですら,語用論の初歩を知っておく意義があるのではないか? そこを考えてみるのがいい.(この点,なんで小学校.中学校の「国語」における文法教育の意義ともからみそう――なんでぺらぺらとしゃべれる日本語の文法をあらためて学んだりするの?)
0 件のコメント:
コメントを投稿