2018年9月19日水曜日

S.ピンカーとH.バーバの議論(追記:ピンカーのみ抄訳)

スティーブン・ピンカーと,「ポストコロニアル理論」のホミ・バーバのあいだで書面で交わされた議論(9月22~23日に2人が参加するイベントがなんかあるらしい):
ピンカーの最初の返答では,進歩・発展に対して向けられがちな批判の問題点を例によって平易な文章で述べている.ちょっと訳してみよう:
この世界には防ぐことのできた苦しみがあまりにも多すぎるというバーバの懸念を,私も共有している.ただ,「[〈啓蒙〉の贈り物が]もたらされるのと引き換えのコスト」の例を列挙する際に,彼は歴史と因果関係をさかさまにとらえてしまっているように思う.
今日の病理は「現代に影を落とす危難」ではないかと提案がなされるとき,そこではこんな風に想定されている――現代以前には人々は寿命・食べ物・公衆衛生・平和・知識を潤沢かつ均等に享受していた,その後に〈啓蒙〉がおきて,合理的でリベラルな人間主義者たちはトイレやウィキペディアその他もろもろのリソースを「我ら」に属さない人々から奪い取ったのだ――
歴史はそんな風に展開していない.少なくとも,文明の夜明け以来,人類の自然状態は貧困・病気・無知・搾取・暴力(奴隷制と帝国の征服も含む)だった.知識が人間の厚生を改善するよう活用されたとき,誰もがこの状態から抜け出ることができるようになる.『いまこそ〈啓蒙〉を』(Enlightenment Now) (およびその前作『暴力の人類史』)で示しているように,この進歩は熱力学と進化論的生物学から理論的に予想されるだけではない.全世界の厚生を時系列でプロットしたいくつものグラフで目に見える.
「大脱走」(アンガス・ディートン命名)は,どうしても不均等にならざるをえない.便益を先に享受する地域・文化と後になる地域・文化はどうしても出てくる.これはべつに「進歩のパラドックス」ではない.たんなる奇跡の不在だ.すぐれたアイディアとその果実は,瞬時に地球全体に行き渡ることができない.
ホミが列挙した没歴史的な格差リストは,彼が暗示したことの正反対を意味している.どの例をとってみても,数字は過去の方がはるかにひどく,いま改善を続けているところだ.めまいがするほど急速に改善している場合も多い.250年前,改良された公衆衛生を享受できる人はひとりもいなかった.1990年には,28億人が享受した.今日,その数字は50億をこえ,さらに増え続けている.
歴史と因果関係をさかさまにとらえるのは,道義的にも実践的にも問題だ.ホミの論評は,究極の道徳的な善は厚生ではなく一律さであり進歩の原動力は理性と共感の拡大ではなく政治的な闘争だという考え方におちいっている.私の考えはちがう.道徳の観点で見れば,すべての国で子供たちの33パーセントが死ぬ世界は,幸運な国々で子供たちの 0.3パーセントが死にそれほど幸運でない国々で7パーセントが死ぬ世界より劣っている(まして,この数字がさらに下がり続けているならなおさらだ).また,過去に人間の厚生を高めた要因をつきとめれば,現在の苦しみと危険を減らせる方法がわかる.これには,炭素排出ゼロのエネルギーや水の不要なトイレといったノウハウの発展や,国家・信仰・部族・階級の優越ではなく普遍的な人権の理念をあらためて掲げることも含まれる.私がみるところ,「解放の神学」はほとんど役割を果たさないように思える.
〈啓蒙〉の理念を西洋と同一視するのは間違いだという点で,私はホミに賛成する(また,非西洋や非〈啓蒙〉についてよく知っている Shiraz Maher に対して公正を期するために言っておくと,文脈からして彼がこの同一視をしていないのは明らかだ).科学・世俗主義・寛容といった理念は西洋以外でも繰り返し登場したばかりか,西洋そのものも〈啓蒙〉的人間主義を全面的に支持したことは一度もなかったし,ロマン主義・ナショナリズム・ファシズム・宗教原理主義・反動イデオロギーといった反〈啓蒙〉運動に絶え間なく惑溺してきた.これが聞きなじんだ話に聞こえるなら,〈啓蒙〉が私たちの危難に対しておさめた達成が無視されている理由も想起されるはずだ.

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