2018年5月2日水曜日

スタンフォード哲学事典の「言語行為」を訳読しよう #16

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5. 話者意味と効力

すでに見たように,コミュニケーションの重要な構成要素に A があり,A では B が決定しきれないからといって,B はコミュニケーションの重要な構成要素だという結論が正当化されはしない.効力と音量で扱いが非対称に異なっている理由のひとつに,音量とちがって効力は,c〔どういうつもりでものを言ったのか〕にとってとても重要に思える,ということがある.「これくらいの音量でしゃべろう」と意図してしゃべって,首尾よくそのとおりの音量でしゃべることもたまにはある.だが,大半の場合には,たまたましかじかの音量でしゃべっているのは,じぶんが発した言葉でどのように意味しているかの一部になっていない.他方で,発話の効力は意味することの一部をなしている.すでに見たように,ものを言うことのどんな側面でも内容と密接に関連しているわけではない.だが,確言のつもりで言ったのか,推測のつもりで言ったのか,約束のつもりで言ったのかは,どういう意味で〔どういうつもりで〕やったのかにとって決定的に重要となる.

5.1 グライスによる話者意味の説明


影響力ある 1957年の論文で,グライスは「意味する」('mean') に2つの語義を区別した.ひとつは,'Those clouds mean rain'(あの雲の様子だと雨がふるな〔Lit. あの雲は雨を意味する〕や 'Those spots mean measles'(この斑点ははしかだな〔Lit.この斑点ははしかを意味する〕)などで例示される.こうした例にでてくる意味を,グライスは「自然的意味」('natural meaning') と名付けた.グライスの提案によれば,こうした「意味する」の語義と区別されそうな他の語義もあり,そちらはコミュニケーションに関連しているのだという.そちらの語義を例示するのは,次のような発話だ:
「あんたはドアにはなっても窓にはならないんだよ」("You make a better door than a window") と言うことで,ジョージは相手がどくべきだということを意味した」〔ジョージがテレビの前に突っ立って見られなくなっている場面を思い浮かべるといい〕
さらに:
ああいう身振り手振りをすることで,サルヴァトーレは向こうに流砂があることを意味している.
グライスは,この語義の「意味する」に「非自然的意味」という用語を使った.もっと近年の文献では,このジャーゴンは「話者意味」の用語に」取って代わられている.[12] 自然的意味と話者意味(と以後は呼称しよう)とを区別したあと,グライスは話者意味を特徴づける試みにとりかかる.こちらを見ている相手の信念に影響することをやるだけでは十分ではない:たとえばコートを羽織れば,それを見た相手が「散歩にでかけようとしているのだな」と結論するよう誘導することになるかもしれない.だが,こうした場合には,話者意味と密接に関わる語義で,こちらが散歩に出かけようとしていることを意味していることにはならなそうだ.相手の信念に影響を与えようという意図をもって行動すれば,話者意味になるのに十分だろうか? それはちがう;スミスのハンカチを犯行現場に残しておくことで,スミスが犯人だと警察に思わせられるかもしれない.だが,スミスが犯人だと当局に首尾よく信じ込ませられるかどうかによらず,この場合には,スミスが犯人だと私が意味しているということにはならなそうだ.

ハンカチの例に欠けているのは,あからさまさ〔公然性 overtness〕だ.ここから,さらなる規準が浮かび上がる:相手の信念に影響を与えようとの意図(ひとつきりの意図であれ他にもあるなかの1つであれ)をもって行動をとりつつ,まさにその意図が〔相手に〕認識されることを意図する〔のが話者意味かどうかの規準だ〕.グライスの主張では,これでも話者意味には十分でないという.ヘロデがバプテスマのヨハネの首を盆にのせてサロメに見せる.このとき,ヨハネが死んでいることを認識することをヘロデは意図しており,しかも,まさにその意図をヘロデが認識することも意図している.グライスの所見では,こうすることでヘロデはサロメになにごとも伝えていないが,故意に,あからさまにサロメになにかを知らしめている.このヘロデの行動も,話者意味には該当しないとグライスは結論する.問題は,ヘロデ言葉を使っていないことではない.すでに考察したように,伝達するガワは言葉を発することなくなにごとかを意味することがある.問題は,サロメはヘロデの言葉をどう受け取ろうと,ヘロデがサロメにさせようと意図していることを推論できるという点にありそうだ.自分から見やれば,切り落とされたヨハネの首は見える〔し,ヨハネが死んでいることもわかる〕.これと対照的に,中心的な用法では,なにごとかを伝えるのには,〔相手が〕こちらの言葉を真に受けることに決定的に依存するかたちで,話者が情報を(あるいは情報とされるものを)伝えようと意図する必要がある.少なくとも意味されることが(疑問文や命令文の場合ではなく)命題の場合は,この中心的な意義で相手になにごとかを告げる (telling) ことが話者意味には必要だとグライスは想定しているらしい.さらに,この最後の例は,相手の信念に影響を与えようとの意図をもって行動しつつまさにその意図が認識されるよう意図している事例に当たる.だが,なにごとかを告げる (telling) 事例には当たらない.グライスは,これも話者意味の事例には該当しないと推論している.

グライスの考えでは,話者意味が生じるためには,たんに (a) 聞き手にある効果を生じさせようと意図し,(b) まさにその意図が聞き手に認識されるよう意図しなくてはならないだけでなく,(c) 話者の意図を相手が認識することによって(少なくともそう認識されることも含む原因によって)この効果が聞き手に生じるよう意図しなくてはならない.(少なくとも部分的には)まさにその意図が認識されることによって信念などなんらかの態度を生じさせる意図は,再帰的な伝達意図 (reflexive communication intention) と呼ばれるようになっている.

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  • 'overtly' は「あからさまに」,'overtness' は「あからさまさ」と訳した.


つづく.


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