2018年5月5日土曜日

スタンフォード哲学事典の「言語行為」を訳読しよう #18

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5.3 話者意味の一側面としての効力


こうして長々と話者意味の話で回り道をしてきたことが,効力の概念をはっきりさせるどういう助けになるのだろうか? どうやら,P だと確言するには,P を伝達するじぶんの自己拘束(コミットメント)をあからさまに顕在的にする方法があるようだ.しかも,そのコミットメントは個々別々の種類の自己拘束らしい:「なんでそうだとわかるの?」といったかたちで問い返されたときに P を擁護するよう自己拘束〔を顕在化させて P を主張しているなら〕{1},P が事実かどうかに応じて,P の件についてじぶんが正しいか間違っているかに責務をもつこともあからさまに顕在化しなくてはならない.これと対照的に,同じく「間違った場合の責務」への自己拘束をあからさまに顕在化させることで私は P だと推測するが,しかし,この場合には正当化を要求する異議に返答するよう自己拘束はしていない.とはいえ,P だと信じるなんらかの理由は示さなくてはいけない.だが,当て推量にはそこまでのことは求められない.

訳註 {1}: ここの箇所,コロン以下の原文が不完全なように見える."commitment to..., I must overtly manifest ..." というかたちで,主節の I must ... 以下は文になっているものの,その前の commitment to... の箇所はたんに名詞句を置いただけになっている.

すると,言語行為が遂行されるのは,ある内容に特定のかたちであからさまにみずからを拘束する(コミットする)ときだ――ここでは,そうすることがその内容を話者意味する方法の一部となっている.そうするひとつの方法に,自己拘束する慣習を喚起するやり方があり,また,別の方法としては,そのように自己拘束するみずからの意図をあからさまに顕在化させるやり方がある.そのときどきに関連するかたちの自己拘束(コミットメント)をはっきりさせるには,その基底にある規範をはっきり言う [spell out] すればいい.そうしたアプローチについては,確言と推測のちがいを論じたときにおおまかに示しておいた.さらにこの議論を発展させて,次の3つを比べてみよう:
確言する (asserting)
推測する (conjecturing)
当て推量する (guessing) 
この3つの行為はどれも言葉から世界への適合方向をもち,どれも世界のありようがその内容が言っているとおりになっているときにかぎって充足されることを要求する充足条件をもつ.さらに,P を確言したり推測したり当て推量したりした人は,現に P であるかどうかによって P の件について正しかったり間違っていたりする.だが,確言,推測,当て推量の順に,自己拘束(コミットメント)の強さ (stringency) は下がっていく.P を確言した人は,「なんでそうだとわかるの?」と問い詰められておかしくない立場になり,もしもその問いかけられて適切に返答できなかったときには P を撤回する義務がある.これと対照的に,推測や当て推量に対しては「なんでそうだとわかるの?」と問い詰めるのは適切でない.他方で,推測を述べた人にそう推測するなんらかの理由を示すよう求めるのは正当なことだ.だが,当て推量を言った人には,それすらも求められない.

こうした話者意味の発語内的次元は,意味されることを特徴づけるのではなく,どのように意味されているのかを特徴づけているのだと考えうる.相手に向かって「おつかれだね」(You're tired) と言ったら相手が「おつかれです」(I'm tired) と返したとしよう.このとき,2人は同じことを言っている〔当該の人物がつかれているという内容は同じ〕けれど,ちがうかたちでそれをやっている.同じく,P を確言したあと,それを撤回して P を推測したとしよう.このとき,立て続けにおきた2つの事例は P を話者意味しているが,ちがったかたちでそれをやっている.このアイディアはセクション 8 で発語内自己拘束(コミットメント)の「様態」("mode") というくくりでさらに発展させよう.[15]

こう考えると,話者意味には内容だけでなく効力も含まれることになる.このことは,言語行為それぞれに特徴的な規範的構造に照らしてはっきりさせられる:しかじかの言語行為に特徴的な自己拘束をあからさまに示すとき,その言語行為が遂行される〔これが正しいなら,その特徴的な自己拘束を示すことが,当該の言語行為を遂行する十分条件ということになる〕.これは必要条件でもあるのだろうか? 答えは,そのように意図することなく言語行為を遂行できるかどうかによって変わる――これはセクション 9 で取り上げる.だが,さしあたっては,ここで到達した見解とサールの見解を比べてみよう.サール説によれば,ある行為を遂行しようとの意図を他人が認識したとき,その行為が遂行される.サールによる特徴づけに欠けているのは,あからさまさ (overtness) の概念だ:当該の行為者は,たんに特定の自己拘(コミットメント)をする意図を顕在的にするだけではなく,まさにその意図が顕在的になるよう意図しなくてはいけない.たんに胸の内(あるいは精神の内)を明かすだけの話ではすまないのだ.

---- ここまで訳文 ----

つづく.

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