2018年5月14日月曜日

スタンフォード哲学事典の「言語行為」を訳読しよう #21

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7. 効力標示と論理的に完璧な言語


フレーゲの論理記法 (Begriffschrift) は,演繹推論を実行する厳密な形式体系を定式化する史上初の周到な試みに該当する.だが,フレーゲはじぶんの論理記法のことをたんに妥当性を評価するツールとしか見ていなかったわけではない.そうではなく,フレーゲは,疑問の余地のない第一原理から知識を獲得するオルガノンとして論理記法を考えていたらしい.さらに,我々の知識が依拠する認識論的な基盤をはっきりさせやすくするために論理記法を使いたいともフレーゲは考えていた.この目的のために,フレーゲの形式体系には命題の内容(論理定項なども)を示す記号だけでなく,そうした命題内容を提示するさいの効力を示す記号も含まれている.とくに,彼の形式体系を使って既知の命題から新しい知識を獲得するときには,そこで使われている命題が真であることを公理または推論で導かれた定理として認めるのを示す確言記号を使うべきだとフレーゲは主張した.このように,フレーゲはいまでいう効力標示 (force indicator) を採用していたわけだ:効力標示とは,当該の命題が提示される際の効力を表示するのに使用される表現のことだ.(Green 2002)

ライヘンバッハはフレーゲのアイディアをさらに展開した (Reichenbach 1947).確言記号を使うのに加えて,ライヘンバッハは疑問や命令の効力の標示も使う.ハレも同様に,倫理的発話や同種の発話がどのようになされるかを明示すべく効力標示を導入した (Hare 1970).だが,形式言語であれそうでない〔日本語のような自然〕言語であれ,このように効力標示装置を導入する試み全体の価値に対して,デイヴィッドソンは異議を唱えた.異議を唱える理由はこういうものだ――自然言語にはすでにみずからの言語行為の効力を標示jする装置がいくつも備わっているのだから,なにか効力標示に値打ちがあるとすれば,みずからの言語行為の効力を保証できる場合だろう.だが,そんなことをできるものはない:たとえば決してあやまたず確言の効力を標示することをねらった装置には,お笑い芸人や役者が自分の演技の迫真ぶりを高めるのに利用する余地がある.推定上の効力標示装置を「強化版の叙法」と呼びつつ,デイヴィッドソンはこう記している:
強化版の叙法でその文を発しても確言がもたらされるアテはないのは明らかだ:どんなお笑い芸人でも語り部でも役者でも,すぐさまこの強化版の叙法を利用して,確言の模倣をすることだろう.すると,強化版の叙法に意義はない.利用できる直説法と言語で確言は果たされうる.(Davidson 1979, p.311)
ダメットとハレがデイヴィッドソンに返答している (Dummett 1993; Hare 1989).とくにハレはこのように述べている――かりに舞台で発話がなされたりお笑い芸人や語り部によって使われたりしようとも特定表現の発話が特定の発語内行為の遂行を構成する慣習がある社会がありうるではないか.グリーンは,この初見がはたして発語内行為の問題に関連するのか疑義を呈している (Green 1997).すでに見たように,発語内行為の遂行には意図が必要だ.どんな慣習であろうとも,私が P を信じていることを事実にはできないし,しかじかの文を確言として提示しようと私が意図していることを事実にはできない.

他方で,グリーンは次のようにも述べている――デイヴィッドソンが批判する意味での効力標示が存在し得ないのだとしても,誰かが言語行為を遂行しているかどうかしだいで効力を標示する装置を自然言語が備えられないわけではない:そうした効力標示はその人が言語行為を遂行しているのかどうかは示さないが,言語行為を遂行している場合には,効力標示はその人が遂行している言語行為がどの行為なのかを示すだろう (Green 1997; 2000).たとえば,as is the case(「現にそうですが」)のような挿入表現が条件文の前件〔「~ならば」の部分〕に生起することがある: 'If, as is the case, the globe is warming, then Greenland will melt.'(もしも地球が温暖化しているならば――現にしていますが――グリーンランドは溶けてしまいます).グリーンの主張によれば,この挿入句は,文全体やその一部が確言されていることを保証はできないが,もし文全体が確言されているときには,挿入句によって話者が前件の内容が事実であることにコミットしていることを保証する.もしこの主張が正しいなら,自然言語にはすでにこの限定的な意味での効力標示は含まれていることになる.こうした効力標示を論理記法に取り入れる意義があるかどうかは,今後に残された問題だ.

オースティンが遂行発話・遂行文の概念を導入して以後,遂行文フレーム (performative sentential frames) とでも呼べそうなものが効力標示のようなふるまいを見せているのではないかと提案されてきた: 'I claim that it is sunny'(天気がよいと私は主張します)は,'It is sunny'(天気がよい)の長ったらしい言い方のように思える.この例で,'I claim'(~と私は主張します)はその後に続く部分〔日本語では前にくる部分〕がどう受け取られるべきかを標示しているだけに思える.たとえばアームソンのアプローチでは,こうした文は 'It is sunny, I claim'(私の主張ですが,天気がよいです)のモデルで理解すべきだと考える (Urmson 1952).こうした分析を支持する論拠は,こんな例に見つかる――マリッサがこう発話したのに返事して 'No it isn't; it's pouring outside!'(ちがうね,どしゃぶりだよ)と発話するのはありうるけれども,'No you don't'(主張してないね)と返すのはありえない.ここでも,もしマリッサ当人が天気はよいと信じていない場合には,〔晴れてるどころか大雨だと言われたときに〕マリッサとしては「いや自分は天気がよいと自分が主張すると確言したのであって天気についてはなにも確言していない」と言って非難をかわせはしない.

だが,コーヘン (Cohen 1964) を引用しつつ,ライカンはこうした遂行フレームは文や発話の意味になんら貢献していないという説に異論を唱えている (Lycan 2008).もしマリッサが適切に 'I claim that it is sunny' と発話し,さらにアブドゥルが適切に 'I conjecure that it is sunny'(天気はよいとぼくは推測する)と発話したなら,この説だと2人の発話は同じことを意味することになる.だが,この2人の話者は明らかにちがったことを言っている.他方で,遂行フレームはマリッサやアブドゥルが言った内容に寄与しているのだと考えるなら,どのようにしてこの2人のそれぞれ発話が天気について当人をなんらかの立場に縛り付けることになるのか説明しがたくなるだろう.間違いなく,「p と私は述べる」ならば「pである」といった推論規則があると仮定してもなんにもならない.次のセクションで発語内推論の概念を発展させてから,ライカンがいう「コーヘン問題」への解決案を考えよう.

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つづく.

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