2019年3月8日金曜日

マクファーレン「評価文脈相対主義」を訳読してみよう #06

ながらくすっかり忘れていた訳読を再開するよ.(前回はこちら

内容と状況 Content and Circumstance

ルイス (Lewis 1980) はこう論じている――意味論を研究するという目的のためには,内容や命題について語る必要はまったくない.この点で,ルイスはカプラン (Kaplan 1989) とちがう.カプランは,意味論について2段階の見取り図を考えた.カプランが考える意味論の第一段階では,表現関係 [expression relation] を定義して,任意の文 S と文脈 c について,S が c で表現する構造化された命題を特定する.第二段階では,この構造化された命題について,評価環境 [circumstance of evaluation] における真偽の再帰的な真偽定義を与える.カプランの枠組みでは,環境とは時間/世界の対とされる.ただ,カプランにしても,場所のような「他の特性」が必要かもしれない点は認めている (Kaplan 1989, 504).カプランならそこまで踏み込むかどうかははっきりしないが,原則としては,嗜好や誰の情報に照らしているのか [body of information] といった主観的特性も環境のパラメタになりうる.

文脈に相対的な文の真偽は,こうした2段階をへて得られる:
カプラン型のポスト意味論
文 S が文脈 c で真なのは,c において S が表現する内容が c の環境すなわち <w_c, t_c> にてらして真であるときであり,そのときにかぎられる.
(cf. Kaplan 1989, 522)
ここで,ある文の生起例(オカーレンス)の真理値決定にあたって文脈が果たしている役割は,はっきり2つにわかれる.文脈は,どの内容が表現されたのかを決める内容決定役割 [content-determinant role] を果たしていると同時に,その内容がどの環境にてらして評価されるのかを決める環境決定役割 [circumstance-determinant role] も果たしている.したがって,一般に,ある表現が F-使用感応的になるのには異なる2つのあり方がある.表現の内容が使用文脈の〔特性〕F に左右されるとも考えうるし,使用文脈の F が「文脈の環境」を選び取る役割を果たしているとも考えうる――つまり,その文がその文脈で真かどうかを決定しその確言や信念がその文脈において正確かどうかを決定するにあたって,どの環境に着目するのかを決定する役割を果たしているとも考えうる.

文脈主義の説では,典型的に,1つ目のモデルを使う.たとえば,「嗜好」を扱う場合,文脈主義はしばしばこう考える――文「ベジマイトはおいしい」は,話し手の嗜好 [tastes; 複数形] しだいで異なる命題を表す.だが,2つ目のモデルも選択肢だ.「ベジマイトはおいしい」の内容は世界・時・嗜好に相対的に真理値をもつとも考えうる.その場合,どの3つ組〔<世界, 時, 嗜好> の組〕が「文脈の環境」に当たるのかを決定する一助に,話し手の嗜好 [tastes] (あるいはもっと一般的に,その使用文脈に関連する嗜好)を利用する.こうした考え方―― MacFarlane (2009) を踏襲して「非指標的文脈主義」[nonindexical contextualism] とでも呼べる考え方――では,文は使用文脈に相対的に真理値をもち,正確かどうかは絶対的で評価相対的ではないと考える.「ベジマイトはおいしい」という確言は,ごく単純に,話し手の嗜好(あるいはとにかくその使用文脈に関連する嗜好)にてらしてベジマイトの味がよいときに正確となる.この考え方では,「ベジマイトはおいしい」は嗜好-使用感応的であって,嗜好-評価感応的ではない.

嗜好や情報状態のような「標準的でない」特性に命題の真偽を相対化する説ならなんであれ「真偽相対主義」の名称を当てはめる著者もこれまでの文献には見られる.だが,非指標的な文脈主義論が可能であることからわかるように,評価状況の水準でのこうした相対主義は個別の確言や信念が正確かどうかは絶対的な問題だという伝統的な見解と両立する.(逆に,環境の非標準的なパラメタぬきの評価感応性もありうる.世界だけを環境とする一例として,MacFarlane 2008 を参照.) 真偽相対主義に関して伝統的に懸念されていることの大半は,「この伝統的な見解を却下してしまうのではないか」という点にあって,命題の個別化にはないのだから,MacFarlane (2005a) を踏襲して,「真偽相対主義」は評価感応性を認める説をさす名称にとっておくことにしよう.(Lasersohan 2005 では明示的に評価文脈に真偽を相対化していないので,その説はここで区別した意味で相対主義でないように見えるかもしれない.だが,これは誤解のもとになりそうだ.Lasersohn の考えでは,「使用文脈」は文が使用されうる具体的な可能状況ではなく,複数のパラメタの抽象的な数列とされる.Lasersohn によれば,「これはおいしい」の発話を解釈する際にこうしたパラメタをどう設定すべきかを左右するのは具体的な発話状況の特性と,具体的な評価状況の特性とされる.発話状況の特性は「これ」('this') の指示対象を決定する助けをする一方で,評価状況の特性は,その文脈の「判定者」("judge") を決定する.このように,概念的に両者の区別が明瞭にされてこそいないものの,具体的な使用状況も具体的な評価状況もともにある役割を果たしている.)

「ベジマイトはおいしい」は嗜好-評価感応的だと考える説を求めるなら,カプラン型の枠組みでは2つの選択肢がある.評価文脈には *文脈を* 決定する役割があると考えるなら,一種の内容相対主義がえられる.
内容相対主義的なポスト意味論 (Content-relativist postsemantics)
〔文脈〕c で使用されて c' から評価されたときに〔文〕S が真となるのは,c で表明され c' から評価された内容が c の環境すなわち <w_c, t_c> で真であるときであり,そのときにかぎられる.ここでいう w_c は c の世界,t_c は c の嗜好とする.
内容相対主義の説では,ある使用文脈である文が表現するのはどの命題なのかという問いに絶対的な答えはないと考える.さまざまな評価文脈に相対的に,さまざまな命題が表現される.(真偽相対主義にくらべて,研究文献で内容相対主義を唱えているものはほとんどない.ただし, Cappelen 2008 および Weatherson 2009 を参照.)

評価文脈には *環境を* 決定する役割があると考えるなら,次のような真偽相対主義がえられる.
真偽相対主義的なポスト意味論 (Truth-relativist postsemantics)
〔文脈〕c で使用されて c' から評価されたときに〔文〕S が真となるのは,c で S が表現する内容が環境 <w_c, t_c'> で真であるときであり,そのときにかぎられる.ここでいう w_c は c の世界,t_c' は c' の嗜好とする.
ここでは,使用文脈と評価文脈が連携して,こうした文脈と相対的な文の真偽に関連する環境がどれなのかを決定している.この説にしたがうなら,ナニナニはおいしいという確言や信念が別の文脈 c' から評価して正確となるのは,その確言や信念の時点で c' の評価者の嗜好にてらしてそれの味わいがよいときということになる.このため,まったく同じ確言や信念であっても,ある観察者の評価では正確となる一方で別の観察者の評価では正確でない場合もありうる.このやり方では,「おいしさは評価反応に左右される」という考えをつかまえつつ,ありとあらゆる嗜好の帰属を個別の人や集団にとって食べ物がどう感じられるかに関する主張に還元せずにすませようとしている〔※わからん〕.

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