同じくサール先生のインタビュー本からもういっこ.こちらは,「ファーストオーダー」の哲学と「哲学者が語ったことについての哲学」(いわばセカンドオーダーの哲学)についてサールせんせいが述べてるところ:
2017年3月10日金曜日
再掲:フランス哲学の「10%意味不明」ルール
ジョン・サール先生のインタビュー本 (2001) から,お気に入りの箇所をサルベージ(かつて「はてなダイアリ」にいったん載せて全部削除してたのだ):
他方で,ミシェル・フーコーならよく知ってる.バークレーで同僚だったからね.あるとき,妻とぼくとで彼とランチで同席したことがあってね.彼に言ったんだ,"Michel, pourquoi tu écris si mal?"――「ミシェル,なんでこんな悪文を書くの?会話じゃあきみだってぼくみたいにはっきりものを言ってるじゃないか.なんでこんなに不明瞭な書き方をするの?」って.そしたら彼が,「ぼくがきみみたいにはっきり書くとね,フランスの書評家連中に子どもっぽいって思われるんだよ.infantil って言われてしまうよ.」 彼が言うには,「フランスじゃあね,少なくとも10%は意味不明じゃなきゃいけないんだ」――"Au moins dix pour cent incompréhensible" だって.「そうしないと,かんたんすぎるって思われてしまうんだ,子どもっぽすぎるって.真面目に読んでもらえなくなるよ.深みがないって連中は考えるんだ.」
ぼくはもう面食らってしまってね.「ひょっとしてミシェルはぼくのことをからかってるか,冗談でもとばしてるのかな」と思ったりしたよ.それで,コレージュ・ド・フランスで講義をしてたとき,ピエール・ブルデューにこの一件を話してみたんだ.ピエールがそのときの招待主でね.それで,彼に,ミシェルは真面目に言ったのかなって聞いたら,ピエールがえらく興奮して,「まったくもってそのとおりだよ.それどころか,10%以上だね.10%をずっと上回るよ.意味不明なことをいれなきゃ,フランスじゃあまともにとりあってもらえないんだ.」 そうしてみると,これはフランスとアングロサクソン諸国のちがいなんだね.ぼくなんかは,なんでもすごくはっきりさせようと一生懸命やってるものね.
フランスには,流派のちがう知的グループがすごくたくさんあって,アメリカでいちばん有名なのが最良のグループってことはないんだ.たぶん,最良のグループは分析哲学をやってるひとたちだろうね.最近まで,彼らは CREA ってところで分析哲学をやってた.「応用認識論研究所」(Centre de Recherche en Epistémologie Appliquée) ってところ.すぐれた哲学者が大勢いるよ,フランソワ・レカナティとか,ダン・スペルベルとか.他に,パリにもいい哲学者がいるね.たとえばジャック・ブーブレスなんかがそう.
- John Searle & Gustavo Faigenbaum, Conversations with John Searle (English Edition). LibrosEnRed, 2001/2005. [Amazon]
加藤秀一先生のブログに孫引きされたのを読んだ方もそこそこいるみたい.
2017年3月9日木曜日
2017年3月8日水曜日
weblog: メールチェック・ツイッター・インスタグラムがやめられないとまらない:中毒の研究
- "This Is How To Stop Checking Your Phone: 5 Secrets From Research," Barking Up The Wrong Tree, March, 2017.
元ネタというか参照してるのは下記の本:
- Adam Alter, Irresistible: The Rise of Addictive Technology and the Business of Keeping Us Hooked. Penguin Press, 2017.
著者はニューヨーク大学 (NYU) の心理学・マーケティングのせんせいだそうな.
かざりだけの言語相対論
『シノドス』に,「現代思想・政治思想史」研究者の重田園江という人のインタビューが掲載されている.
記事のタイトルにもあるように,インタビューのなかで,次のような発言がでてくる
少なくともぼくにとって,2017年の時点で,重田氏がこうしてなんら限定もつけずに(そして関連研究をとりたてて考慮することもなく)気楽に言語相対論を言えることに,いくらかの驚きを感じる.
でも,ここで言語相対論の正否を論じるにはおよばない.おそらく重田氏が言わんとしている眼目にとって,こうした言語相対論はべつに必要ではないからだ.さきほどの引用に続いて,こう彼女は言っている:
必要ではないはずの言語相対論がなぜか彼女の方法論にとって重要であるかのように言及されていることこそがなによりもおかしいのだと,ぼくは思う.
記事のタイトルにもあるように,インタビューのなかで,次のような発言がでてくる
人間の思考は言葉でできていますよね。そのため、言葉遣いが変わると思考も変わるわけです。語彙(ボキャブラリー)が変わると人間の思考が変わるというと,いかにも言語によって思考が変わる/影響されるという言語相対論あるいはサピア=ウォーフ説の一種のように聞こえる.おそらく,重田氏じしんもそのつもりで発言しているのだろう.
少なくともぼくにとって,2017年の時点で,重田氏がこうしてなんら限定もつけずに(そして関連研究をとりたてて考慮することもなく)気楽に言語相対論を言えることに,いくらかの驚きを感じる.
でも,ここで言語相対論の正否を論じるにはおよばない.おそらく重田氏が言わんとしている眼目にとって,こうした言語相対論はべつに必要ではないからだ.さきほどの引用に続いて,こう彼女は言っている:
その言葉使いがどう変化したのかを調べることで、人間の思考の変化を分析するというのが、今の思想史の研究です。言語によって思考が変わるという影響があってもなくても,言葉づかいの変化を追いかけることで「人間の思考の変化」はいくらかわかる.雨について人々が「雨乞い」を語る時代と「梅雨前線」を語る時代は,きっと雨に関する考え方がちがうだろう.重田氏がインタビューで言及している犯罪者の取り扱いに関する考え方の変化や,「経済のボキャブラリーがあらゆるところに浸透している」という所見についても同様だ.こうした考えの違いや変化が言語のちがいや変化に起因していなくても,言葉や絵画などのかたちで残る資料から,おおよその考え方はうかがいしれるだろう.どういう切り口で,どういう世界観で物事について語っているか,その資料の検討をつうじて,さまざまな時代・文化の人々の考え方はうかがいしれるだろう.ごく当たり前のことだ.言語相対論の正否は,こうした論点にはなんら関係がない.
必要ではないはずの言語相対論がなぜか彼女の方法論にとって重要であるかのように言及されていることこそがなによりもおかしいのだと,ぼくは思う.
2017年3月7日火曜日
weblog:「ブライトバートがみちびく右派メディアのエコシステムがもっと幅広いメディアの使命を変えた」
- Yochai Benkler, Robert Faris, Hal Roberts, and Ethan Zuckerman, "Study: Breitbart-led right-wing media ecosystem altered broader media agenda," Columbia Journalism Review, March 3, 2017.
▼ 一部抜粋:
Our analysis challenges a simple narrative that the internet as a technology is what fragments public discourse and polarizes opinions, by allowing us to inhabit filter bubbles or just read “the daily me.” If technology were the most important driver towards a “post-truth” world, we would expect to see symmetric patterns on the left and the right. Instead, different internal political dynamics in the right and the left led to different patterns in the reception and use of the technology by each wing. While Facebook and Twitter certainly enabled right-wing media to circumvent the gatekeeping power of traditional media, the pattern was not symmetric.
「テクノロジーとしてのインターネットこそ,フィルターに守られた繭につつまれ〔個人の好みにあわせて編集された〕「日刊じぶん」(the daily me) だけを読んで暮らすことを可能にすることで公共の言説を断片化し意見を両極端にわけている」という単純な筋書きに,我々の分析は異議を唱える.もしも,テクノロジーこそが「事実無用」(post-truth) 世界を推進する最重要の要因だったなら,左派と右派とで対称的なパターンが生まれていると予想されよう.だが,左派と右派とではそれぞれ内部ではたらく政治の力学が異なるために,左右でこのテクノロジーの受け止め方と利用法に異なるパターンが生じている.なるほど Facebook と Twitter のおかげで右派メディアは伝統的メディアがもつ最低限の品質維持(ゲートキーピング)の力を迂回できるようになったが,このパターンが〔左派と右派でそっくりな〕対称をなしてはいなかった.
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