2018年1月5日金曜日

用例メモ:「おきれいだったねぇ」の曖昧性

ラジオを聞いていたら、こういうやりとりがあった:
A1「で、あともうひとりは、原田知世ですよ。」
B1「原田知世さんおきれいだったねぇ〜」
A2「いや、いまもきれいですよ」
B2「いや、ちがうんすよ。ゲストきたんすよ」
(「伊集院光とラジオと」TBSラジオ、2018年1月4日放送分)

B1の「おきれいだったねぇ」に対して、A2はそれを「いや」と否認して「いまもおきれいですよ」と続けている。ここで否認されているものはわかりやすい: つまり、「おきれいだったねぇ」には、明示的な内容として「過去のある期間に、その人がきれいだった」という過去の状態を断定する意味があるだけでなく、「もはやきれいではない」という言外の意味も推定される(会話の推意)。B2 が否認しているのは、この会話の推意であって、過去にきれいだった点は否認していない(原田知世はかつてきれいだった;そして、もはやきれいではないのではなくて、いまもきれいだ)。

おもしろいのはそのあとのやりとりだ。B2 は「いや、ちがうんすよ」とさらになにかを否認している。

では、なにを否認しているんだろう?

ひとつには、「原田知世がもはやきれいではないということを言おうとしたわけではない」ということだろう。つまり、B1「おきれいだったねぇ」で言わんとしたのは、「もはやそうでない」という推意をともなう意味ではなかったということだ。でも、それだけなら、「ゲストきたんすよ」と続けるのは関連のない無駄な発言になる。

では、「ゲスト(に)きたんすよ」は、その否認とどう関連しているんだろう?

ぼくの語感だよりの話になってしまうけれど、「おきれいだったねぇ」は、「実際にじぶんの目で見た」という意味を含むように思う。「ゲストきたんすよ」は、このラジオ番組に原田知世がゲストにやってきて、話し手(伊集院光)が直にじぶんで見たということを伝えている。これを伝えることで、「おきれいだったねぇ」に読み取ってほしい意味が「もはやきれいではない」の推意ではなくて「先日じぶんの目で直に見たこととして」という意味(推意?)だと調整をはかっているのだと考えるのが自然に思える。

似たような例を考えてみよう。たとえば、「?あの店のどら焼き、おいしかったねぇ;いや、ぼくは食べてないけれど」は、文法的にはなんら問題ないけれど、言わんとしていることがなにかおかしい。「あの店のどら焼き」が事実としてふつうの人の味覚にとっておいしかったなら、「あの店のどら焼き、おいしかった」は「真」だと言えるだろう。そのことと、話し手本人が食べたことがないということには、べつに矛盾はない。それでも、この発話全体はおかしく感じられる。なぜなら、「おいしかったねぇ」には「じぶんで食べて味わってみた」という明示的でない意味がともなっているからだろう。









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