2016年6月28日火曜日

「ジェンダーと科学の科学:ピンカーとスペルクの対論」(24)

スティーブン・ピンカーとエリザベス・スペルクとの対論をちまちま訳しています(前回はこちら).今回でスペルク側の主張も終わりです.

以下,訳文:



スペルク:生まれた瞬間からテニュア獲得のそのときまで,このように発達していくなかで,男女の捉えられ方・ひょうかのされ方には重大かつ広範におよぶ意図せざるちがいがつねに現れてきます.

捉えられ方がすべてではない点は強調しておかねばなりません.あいまいでない事例では,こうした効果は現れません.さらに,認知発達は頑健です:捉えられ方・評価のされ方は異なりながらも,科学・数学も含むさまざまな教育場面で男の子と女の子が示す能力と成績は同等です.男女ともに同じ経路をたどって同じ能力のセットを身につけるというのは,本当にすごい話だと思います.扱われ方こそ平等でないにも関わらず,男女が同等の能力・成績を見せることから,数学的・科学的な推論には生物学的な基盤があり,この基盤は男女で共通なのだろうと強く示唆されます.

最後の論点です.男性として捉えられれば男の子になったり女性として捉えられれば女の子になったりするわけではありません.この教訓をもたらしたのは,生まれた性別と逆の性別として育てられた人たちの研究でした.生物学的な性差は現に存在し,十代です.性別は人々に押しつけられる文化的な構築物ではありません.

しかし,いま問題なのは,「生物学的な性差はあるのか?」ではありません.問題は,「数学者・科学者で女性の方が少ないのはどうしてなのか?」です.ここで述べてきたバイアスのパターンからは,この問いに対する4つの答えがえられます.この4つは互いにからみあっています.第一に,ごく自明なことですが,バイアスのかかった捉え方は差別を生み出します:同等の資質をもつ男女がさまざまな雇用機会で評価されたとき,「男性の方が適している」と捉えられていれば,男性の方が多く採用されることになります.第二に,人々が合理的であれば,学術業界に進むのは女性より男性の方が多くなるでしょう.男性は,自分が女性より成功の見込みが高いと考えますからね.採用確率が女性より高く使えるリソースも多いとなれば,その分だけ,男性にとって大学での雇用は魅力が高まります.

第三に,若い時期にバイアスのかかった捉え方をされることで,女性の学生は科学や数学のキャリアを試みることすら躊躇するかもしれません.客観的には同等なのにヨソの子よりも我が子には天賦の才が欠けていると親が受けとっていれば,子供の意欲を削ぐことになるでしょう.この点は,エクルズの研究が示すとおりです.最後に,雪だるま方式の効果がありそうです.誰にとっても,じぶんと似た人たちが周りにいるキャリアの方が,その道に進んだ自分の姿を想像しやすいものです.いま述べてきた最初の3つの効果によって,女性の科学者・数学者が少ない状況が永続するとしたら,若い女の子たちにとって,将来の選択肢に数学や科学を数えにくくなるでしょう.

さて,私個人のスコアボードで判断しますと,以上が主要な要因です.ただ,締めくくりに1つ問いをおいておきましょう――スティーブも部分的には正しいかもしれないのでは? 動機の生物学的なちがいによって――更新世に進化した今日の私たちにもあてはまる動機のパターンによって――女性よりも男性の方が数学・科学のキャリアに進みやすくなっているかもしれないのでは?

私の感覚では,現状でこの主張は評価できないと思います.事実かもしれませんが,差別・バイアスの力でこうも広範に人々が影響されているかぎり,真偽は知りようがありません.これを見極める方法はただひとつ,実験しかありません.男女が同等の認知能力を有しているという証拠が世間に浸透してゆけるようにすべきです.我が子の性別から思い浮かべる「それならこういう能力があってしかるべきだ」という感覚によってではなく,実際の能力によって親たちが子供を評価できるようにすべきです.そうなってはじめて,〔同等の扱いを受けた〕男の子たち・女の子たちが大きくなったときに,男女で異なる内なる声によってちがう方向に進むことになったかどうかを確かめられます.その実験結果がどうなるか,私にはわかりません.ただ,いつか将来の世代で子供たちがそれを見いだせたらと願うばかりです.

――今日はここまで.

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