2016年8月24日水曜日

雨宮 (2016) におけるハーレー et al. (2011/2015) の論評

雨宮俊彦『笑いとユーモアの心理学:何が可笑しいの?』(ミネルヴァ書房,2016)は,日本語で公表されたユーモア心理学に関する貴重な単著だ.そして,ハーレー et al.『ヒトはなぜ笑うのか』を参照したおそらく最初の日本語文献でもある.ただ,そのまとめ方は,あまりフェアなものになっていない.

ユーモア理論の諸説をまとめた第4章で,ハーレーらの研究が要約・評価されている (pp.128-131).彼らの説明の要約は簡略だけれど,おおよそ正しい.そして,ハーレーらがくすぐりのおかしさを説明するにあたって「ガルガレーシス」と「ニスメーシス」のちがい(こちらを参照)を考慮しておらず,ニスメーシスで笑いが生じない理由を説明できないという批判も,説明の不十分なところを指摘していて有益だとぼくは思う.

そして――雨宮による具体的な批判はそれだけだ.それ以外の評価の言葉は,的外れなイヤミか,一方的な論難になってしまっている.

たとえば,雨宮はこう書いている:
「デネットの他の本にもあることだが認知科学,進化論心理学に関する饒舌が満載の本を通読してみると,細いエビの身を多量の衣でまぶしたような内容で,基本的なアイデアは存外細身であることが分かる」(p.128)
たしかに,同書が饒舌で多弁なのはまちがいないし,彼らの「基本アイデア」は単純明快だ:なんなら「ユーモアとはバグ取りの報酬」のワンフレーズにまとめてもいいくらい,骨子ははっきりしてる.そして,それを十全に展開するために,あれだけの分量を使って先行研究をサーベイし,必要な区別や考慮すべき事項を取り上げている.どうでもいい余談や水増しをしているわけじゃない.それを「多量の衣でまぶし」ているというのは的外れな論評だ.なにより,彼らの骨子が明快なのは――雨宮のいうエビの身が「存外細身」なのは――彼らの理論の長所だ.なにが言いたいのかわからない話をぐだぐだやってるんじゃなくて,明快なアイディアを精緻に展開してることを上記引用のようにまとめるのは不当だとぼくは思う.

また,ハーレーらによるくすぐりの説明について,雨宮は次のように言う:
「英語では,虫は bug でプログラミングの誤りのバグと同じ言葉である.同じバグなので,つい思いつきの説明をしたのかもしれないが,ハーレーらの説では,くすぐりによる笑いは説明できそうもない.」(p.130)
なるほど,ハーレーらは「ようするに,くすぐったさは認知的なバグだ」と書いている (p.377).そこで彼らがダジャレを意図したのかどうか,ぼくにはよくわからない.ひとつたしかなのは,彼らがこのダジャレからの思いつきでくすぐりの説明をやっているわけではないってことだ.ハーレーらの説明は,ラマチャンドランとブレイクスリーの先行研究 (1998) での提案をベースにして,修正を加えたものだ.くすぐりのおかしさを信念との不一致で説明しようとするのは先行研究からあったので,いきなりでてきた思いつきとはちがう.彼らが他にも先行研究を参照しながら説明を述べているのは,読めばすぐにわかることだ.上記の箇所は,ただの邪推にしかなっていない.

そして,全体的な評価を雨宮はこうまとめる:
「しかし,進化論と認知科学を結びつけて,ユーモアを説明しようとする試みは失敗しているように思える.その理由は,進化的に形成された報酬という考えを,ダーウィンが試みたように,身体的可笑しみや子どもの発達などの十分な知見を照合して定式化し,展開することなしに,一人称の誤りの検出説としゃれたジョークといった都会知識人の世界に短絡させ理論を定式化した点にある.」(pp.130-1)
もう一度繰り返しておこう――雨宮が具体的に指摘した問題点は,くすぐりの問題において「ガルガレーシス」と「ニスメーシス」のちがいが説明されていないという一点しかない.それにも関わらずハーレーらの試みが「失敗している」と総括するのはまったく釣り合いがとれていない.

追記:「身体性」を考慮していない?

ハーレーたちが「身体的可笑しみや子どもの発達」を十分に考慮していないと雨宮は言う.では,雨宮がいう「身体的可笑しみ」とは,具体的にはどんなことだろう? 彼によれば,可笑しみは乳幼児が示す「原ユーモア」から順に発達していく:「可笑しみの基盤となるのが,じゃれ遊びを中心とするくすぐりや追いかけっこなどの身体レベルの活発な活動にともなう可笑しみである」(p.218).すると,身体性とは「身体レベルの活発な活動」のことだと理解してよさそうだ.

さて,下に引用した図のように,原ユーモアの具体例に挙げられているのは「くすぐり,イナイイナイバー,じゃれ遊び,モノ遊び」といった項目だ.じゃれ遊びで体を活発に動かすのはわかるけれど,乳幼児を笑わせるくすぐりや「いない・いない・ばあ」では,笑わせる大人はくすぐったり顔を隠してからもう一度見せたりといった動作をするけれど,笑わされる子供の方はこれといって体を活発に動かしはしない.

(『笑いとユーモアの心理学』p.218)
雨宮の言う「身体性」を「活発な活動」ではなくて身体的な感覚のことだと考えると,「くすぐり」は含まれて「イナイイナイバー」は除外される.ともあれ,この2つの語義の両方にまたがるのだと考えれば,ひとまず「身体性」で言わんとしていることはわかる:
  • 身体性a: (笑う側の)身体レベルの活発な活動が関わること
  • 身体性b: (笑う側の)身体的な感覚が関わること
さて,上記 (b) の身体的な感覚という意味でなら,ハーレーたちはくすぐりの説明でこれをもっと精密に考慮している.脇の下や足の裏などの特定部位への独特な刺激は,なにか「おぞましい生き物がぼくの皮膚に触れているぞ」とでも言い表せる信念を生じさせると彼らは言う (p.376).信念といっても,高次の論理的な推論の関わる信念ではなくて,「感覚神経にかなり直接に根ざしている」知覚から生じる暗黙の信念だ.

知覚から生まれる信念は,もっと高次の認知によって打ち消されない:たとえば,動いているかのように見えるだまし絵は,「これはただの画像だ,動画じゃない」と分かっていてもなお,知覚レベルでは動いているように見えてしまう.くすぐりから引き起こされる知覚的信念を高次認知が打ち消せないことで,くすぐったさの重要な特徴が説明されるのではないかとハーレーたちは提案している(『ヒトはなぜ笑うのか』p.379).くすぐりには,くすぐられているかぎり,ずっと可笑しみの情動が持続するという特徴がある.親や友好的な相手が遊びでくすぐっているとわかっていても,くすぐりの感覚は「ネズミかなにかのおぞましい生き物に攻撃を受けている」という低次の信念を惹起する.そのたびに高次信念との不一致が生じるので,くすぐったさの可笑しみがずっと持続することが説明されるのではないか,とハーレーたちは提案している.

このように,ハーレーたちは身体的・知覚的なレベルでの低次認知と高次認知との関係でくすぐりの可笑しみを説明しようと試みている.これが完璧な説明だとは彼らも言っていない.雨宮が言うようにニスメーシスとガルガレーシスのちがいが十分に説明できないという批判は,おそらく当たっている.ただ,ここでの要点は,「身体性」を考えていないという批判は当たらないってことだ.それどころか,「身体性」というあいまいな用語によらないもっと明瞭な説明を彼らは試みている.それにも関わらず,雨宮は次のように述べている:
「くすぐりやじゃれ遊びなど身体レベルの笑いや可笑しみはジョークなどの認知レベルの可笑しさとは別であるとするのは,1つの解決策だが,ハーレーらはその道は選択しない.」(p.130)
そうではない.「身体レベルの笑い」に関わる認知とジョークに関わる認知の何が共通していて何が異なっているのかを,ハーレーたちは区別して論じている.

ここまでの話を踏まえて,もう一度,雨宮による総括を読み返してみよう:彼によれば,ハーレーたちの理論は失敗しており,
「その理由は,進化的に形成された報酬という考えを,ダーウィンが試みたように,身体的可笑しみや子どもの発達などの十分な知見を照合して定式化し,展開することなしに,一人称の誤りの検出説としゃれたジョークといった都会知識人の世界に短絡させ理論を定式化した点にある.」
「身体的可笑しみ」をハーレーたちは考察しているし,「一人称の誤りの検出説としゃれたジョークといった都会知識人の世界に短絡させ」てなどいない.上記のような評価は,フェアなものとはおよそ言いがたい.

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