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こうした問題を回避しようと試みる他のアプローチでは,拘束(コミットメント)の概念を行為の義務と過誤の責任および/あるいは免責の観点で還元して定義する.ある言語行為または言語行為のある集合を遂行すると,その行為者は明確な内容に拘束される.これは,なんらかの効力に照らしてなされる.P と Q が組み合わさって R が含意されるとき,P かつ Q を確言すると R に拘束される.だからといって,このとき R も確言したことにはならない:演繹の帰結で確言が閉じられていないと,ただあることを確言しただけで,無限にいろんなことを確言することになってしまう.これと対照的に,P かつ Q を推測すると,やはり R に拘束されるものの,P かつ Q を確言した場合とは拘束のされ方がちがう.たとえば,確言の場合なら,〔P かつ Q の確言から〕さらに R にも拘束されることが明らかなったなら,聞き手には R が成り立つとどうしてわかるのか訊ねる権利がある.他方で,P かつ Q を推測しただけの話者に対して同じように訊ねるのは容認可能な反応ではないだろう.この主題を発展させて,こう考えよう.任意の話者を S とする.また,<ΔlAl, …, ΔnAn, ΔB> を効力/内容の対の列とする.このとき:
話者 S が様態 Δi のもとで Ai それぞれに拘束されているなら S が様態 Δ のもとで B に拘束されるとき,そのときにかぎり,<ΔlAl, …, ΔnAn, ΔB> は発語内的に妥当である.[18]
訳註: いくらなんでも説明が足りなすぎる.とりあえず本文では「効力/内容の対」と言っているので,どうやらΔは(発語内)効力を表し, A や B は内容を表すらしい.つまり,Δ1A1 と書いてあったら,なんらかの効力Δ1 とその内容 A_1 のペアを表すわけだ:たとえばそれは「明日は雨が降るとぼくは予想します」の文できっと表される予測の効力と「明日は雨が降る」の命題内容のペアだったりするんだろう――これだけなら,まあわかる.ところが,上記の引用では「様態Δ」とも言っている.あれ,じゃあΔは発語内効力の記号じゃないわけ? それとも,効力は様態でもあるの? このへんの事柄をまるっきり省いてしまっているので,話についていけなくなってしまう.
発語内的妥当性はどういう効力/内容の対が他のどういう効力/内容の対に行為者を拘束するのかに関わるので,発語内的妥当性は本質的に義務論的な概念だ:つまり,会話で特定のかたちである内容を使う義務か,あるいは世界のありよう〔ようするに事実・現実〕に応じて過誤の責任やその免責の観点でまとめられる.
ここまでに論じてきた発語内論理の可能性の議論で,セクション 6.3 の最後に提起しておいた問いに答えられる――「そうする意図なしにしかじかの言語行為を遂行するのは可能か?」 サールとヴァンダーヴェーケンによる強い発語内拘束(コミットメント)の定義を踏まえると,これは可能そうに思える:当人こそ知らないもののある言語行為 S_n を定義する7つの条件をこの話者が必ず満たすことになるいくつもの言語行為 S_1, ..., S_n-1 をある行為者が遂行しているのを想像するだけでいい.こうした場合にも,話者が言語行為 Sn を遂行できるのは,ひとえに,それ以外の言語行為の集合 S_n1, ..., S_n-1 を意図的に遂行するおかげでしかない.いったいどうすればなんらかの言語行為を遂行しようとの意図をもたずに Sn を遂行できるのかは,想像しがたい.ここでわかったことには,セクション 7 で論じたデイヴィッドソンに対するハレの返答を支持するものはほとんどない.〔※わからん〕
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つづく.
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