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6. 効力・規範・会話
ここまで,効力の規範的な次元をはっきりさせる際に,会話での役割の観点で言語行為を特徴づけようと模索してきた.だからといって,言語行為は会話の場面でしか遂行できないと言いたいわけではない:相手につかつか近寄って,あんたの車がそこにあるとウチの車が出られないんだと指摘し,またつかつかと立ち去るような場合だってある.ここでは確言がなされているけれども,会話を交わしてはいない.おそらく,書斎でひとりきりのときになにか自問して,それっきりで終わることもあるだろう――自問して自答することもなく,自分との会話をはじめずに終えてもいい.だが,そうは言っても言語行為の「生態学的なニッチ」は会話にあるのかもしれない.そう考えると,言語行為のタイプをその環境から切り離してそれ自体を単独で検討できるかもしれないにせよ,それでは言語行為特有の特徴をなにか見えなくしてしまうかもしれない.
6.1 言語行為と会話
このように〔生き物の生態を考えるときに生態学的ニッチが重要なのと同じように言語行為についても〕生態学的な類推をしてみると,言語行為を会話から切り離して単独で研究することは有益なのかどうかという問いをめぐる論争がもっと理解しやすくなる.ジョン・ステュワート・ミルの『論理学大系』を代表格とする実証主義的な枠組みでは,たとえば固有名詞など,単語の意味を単独で理解しようという試みを提案する.これと対照的に,ゴットロープ・フレーゲは単語の意味を考えるには,それが生起する文全体への貢献という観点で理解するべきだと提唱している (Frege 1884).こうした方法は,量化子のような表現を適切に取り扱う上で欠かすことができず,実証主義的なアプローチからの大きな進歩だと受け止められている.だが,言語行為の研究者たちは,さらに勧めて,有意義な単位は命題ではなく言語行為なのだと主張している.ヴァンダーヴェーケンはこう記している:
発語内行為が哲学的意味論の目的にとって重要な理由は,自然言語を使用したり理解したりする際に発語内行為が基本的な意味の単位となっている点にある.(Vanderveken, 1990, p.1)言語行為はたいてい会話で生じるのだから,なにも言語行為でとどまらなくていいのではないだろうか? 有意義な単位は,実は論争だったり会談や尋問なのでは?
いわゆる会話分析の研究者たちは,まさしくそう主張している.彼らによれば,多くの言語行為は自然と対をなすものだという.たとえば,質問に答えるのに確言がなされるとき,質問〔という言語行為〕は自然と確言と対をなす.同様に,なにかの申し出は,自然とその受け入れや拒絶と対をなす.他にもいくつもやすやすと例を挙げられる.言語行為を単独で研究することを好むサールは,こうした考えに応えて,会話分析の研究者たちに次のように批判をつきつけている――言語行為の説明に対応するような会話の説明を提示してみよ (Searle 1992).サールの主張によれば,そうした説明を行う見通しは暗い.そう考える理由の1つは,言語行為とちがって会話そのものには目的やねらいがないことにある.Green 1999 ではこれにさらに応じて,多くの会話は現に目的論的な観点で解釈できると論じている.たとえば,多くの会話は質問への回答を目的としたものと解釈できる.その質問が,たとえば午後の天気だとか最寄りの地下鉄駅の所在といったつまらない事柄であるにせよ,ともなくそうした質問への回答を目的としているのだと解釈できる.Asher & Lascardes (2003) では,会話の場面での言語行為の体系的な分析を発展させている.これもまた,サールの批判への応答となっている.さらに加えて,ロバーツも会話の運動学モデルを発展させている (Roberts 2004, 2012).これによれば,会話はどれもロバーツのいう「審議中の問い」(question under discussion; QUD) に応えることを目的としている.この説は,会話の「スコア記録」の枠組みでいちばんよく理解できる.次にこれを取り上げよう.
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つづく.
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