休暇を満喫中のクルーグマンが、経済地理ネタの短文を書いている。
- Paul Krugman, “The Gambler’s Ruin of Small Cities (Wonkish),” New York Times, Dec. 30, 2017. (余談ながら、これまでクルーグマンがこういうネタを書いていたブログ The Conscience of a Liberal は終了して、NYT本誌コラムのページに統合されている)
お題は、「いったい現代経済で小さな都市はどんな目的に役立っているんだろう?」 思いつきをパパッと書きつけた感じだけれど、素人目にはけっこう面白いので、ちょっとご紹介。例によって、以下の文章は原文の議論をなぞってこそいるけれど忠実な「翻訳」ではないことにご留意いただきたい。
昔は、小都市の存在意義は明らかだった。つまり、農業その他の自然リソースに立脚した活動に従事する田舎の人々のための中心地という役目を果たしていた。耕作地その他のリソースはあちこちに点在していたので、田舎の人口もあちこちに点在していた。こうして、小さな都市があちこちに点在することになった。
ところが時が経つにつれて、農業が経済に占める重みはだんだん小さくなっていった。それにともなって、田舎の人口は都市の所在地の決定要因として重大なものでなくなっていった。
それでも、生き残った小都市はあれこれある。なんらかの産業クラスタに特化して産業の中心地になったのだ(情報交換、特化したサプライヤー、専門技能を持つ労働力プールをそなえた中心地として)。
だが、そうした専門特化がどうなるのかを決めるのは、ほぼ偶然のなりゆきだ。たとえばNY州ロチェスターは、まず小麦粉・製粉の中心地としてはじまり、その後、種苗の中心地として栄えた。1853年にドイツ移民のジョン・ジェイコブ・ボシュがモノクル製造業をはじめ、これがのちに光学機器メーカーのボシュロムになる。こうして光学機器メーカーの栄える都市として名を馳せたロチェスターには、イーストマン・コダックやゼロックスといった企業がのちに栄える下地ができあがる。こうしたなりゆきは、小都市に典型的な発展の仕方だとクルーグマンは言う:たとえば1880年にその都市がやっていたことと1970年にやっていたことが大違いに見えるとしても、たいてい、なんらかの外部経済の連鎖によって特定の新たな技術・市場の好機を利用できるような条件ができあがっているものだ、とのこと。
これは偶然まかせのプロセスだ。ある地域になんらかの産業が集中すると、それにとってかわる新産業が発展する豊かな下地がうまれることもあるし、そうならずにどん詰まりに行き着くこともある。多様性に富む大都市なら、そういうどん詰まりがあれこれ生じてもやっていけるけれど、小都市ではそうもいかない。繰り返し「当たり」を引いて栄えていく小都市もあれば、そうならない小都市もある。そして、専門特化した小都市は、やがて「外れ」が続いてついには存在理由を失ってしまう確率がたっぷりある。
成功と失敗それぞれのパターンもなくはない。冬が厳しい地域だと失敗しやすいとか、大学街があったり移民の移住先になっていたりすると新しいひらめきが生まれやすいとか。でも、全体としてみれば、都市の運命は当たりとはずれをランダムに引くプロセスで、「ギャンブラーの破産」を味わう見込みが比較的に高くなる。
いつでも必ずそういうふうになっていたわけではない。かつては農業が点在していたおかげで、田舎の後背地を抱えた小都市があちこちに存在することになった。でも、現代の経済では小都市には歴史のなりゆきの幸運以外にすがるしかなくなっている。だが、このギャンブルを続けていけば、やがて運に見放されるときがやってくることになりがちだ。
ところが、この小都市の盛衰物語でグローバル化は主役級の役者として登場してこない。もしこのアームチェア議論が正しいとすれば、小都市の衰亡の条件はとても長い時間をかけて整ってきたことになる。おそらく、世界貿易の成長(グローバル化の進展)がなかったとしても、ただゆっくりになるだけで同じ道筋をたどっていたことだろう。
ちょっと追記: さらにツイッターでもこのネタについて連続ツイートをしている。起点のツイートはこちら。
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