2017年12月29日金曜日

(チラシの裏ですまない…)

――うーん,そうだなぁ.


こんな事件がおきたとしますね:

  • たなか家の冷蔵庫にあったケーキがなくなってしまいました.現場の冷蔵庫前には,小さな足跡が点々と残っており,ケーキが最後に確認された時刻の前にはこの足跡がなかったのははっきりしています.事件があったと思われる時間帯に家にいたのは留守番をしていたメアリーただひとりでした.

さて…

  • 理論 (A): メアリーが食った.足跡はメアリーのものである.
  • 理論 (B): 透明のいきものの「ぺとぱとさん」が食った.足跡とおぼしき汚れはぺとぺとさんが足型スタンプでつけた.

どちらも理論もおなじことを説明できますが,明らかに理論 B はどうかしてます.さらにダメ押しで,この設定も加えましょう:たしかな調査で,世間の人たちの大半が,「ぺとぺとさん」なんて存在しない,と思っているのがわかっているとします.

  • 「ぺとぺとさん」なるいきものは存在する?… YES: 5% / NO: 95%

 たぶん,この状況設定だと,「一般に受け入れられている物の見方を大幅に変更せねばならなくなる」のは理論 B で,理論 A の方がすぐれているって判定になりますね.

ところがどっこいしょ.警部が「そんないきものいるわけないじゃん,チミはなにを言っておるのかね」とあきれ顔になったところに,「いや,コイツなんですけど」と,くだんの「ぺとぺとさん」とされるいきものが(見えやすいようにペイントされて)捜査員のひとりに連れてこられます.

なるほどたしかに透明だし,まさかの足型スタンプも所持しているのが判明――この時点で,捜査に当たっている警部は理論 B もまじめに見当すべき理論にまで格上げするんじゃないかとぼくは思います.

一方,よい哲学理論として,説明できることが同じなら「一般に受け入れられている物の見方を大幅に変更せねばならなくなる」理論じゃない方がすぐれているって基準だと,さっきの調査からして世間の圧倒的多数が「いない」と思ってるぺとぺとさんの存在を前提にしてる理論 B は相変わらず理論 A より劣った理論っていう判定になるんじゃないでしょうか.ぼくは「なる」って思ってます.

ケーキ事件を担当してる警部にとっては,その時点で判明している確からしい事実にてらして理論の優劣を判断するのがよい捜査ってことになります.その時点で常識(広く受け入れられた物の見方)になっているかどうかは別問題です.

一方,「哲学的な」基準を採用してると,いま捜査で判明してる事実と,一般に広く受け入れられている物の見方,どっちを尊重するのかって疑問が出てきます.この事件の捜査だと,この哲学的な基準は捜査の進展を遅らせちゃうんじゃないかな.

ここで問題なのが,「一般に受け入れられている物の見方を大幅に変更せねばならなくなる」のを避けましょう,そうじゃない理論の方がよい理論ですっていう基準に出番はあるのか,っていう点です.

2 件のコメント:

  1. 森です。

    興味深い事例提示ありがとうございます。

    まず、2点コメントを。

    1.挙げられている例は、説明力が同じ理論を比べる例になってないと思います。挙げる犯人が全く違いますので、両理論の説明力はだいぶ違うのではないでしょうか。
    同じ問題を扱える、と、同じことを説明できる、は別の事柄です。

    2.あとペとペとさんが連れて来られてきた時点でもう判断材料となるデータも変わってますので、ぺとぺとさんの存在を信じるかのアンケートを持ち出すことで理論比較が不適切な比較になると思います。
    アンケートを持ち出すなら、ぺとぺとさんが連れて来られてきた上でぺとぺとさんの存在を信じるか、というアンケートにしないといけないでしょうね。

    以上を踏まえて、本題です。

    この事例で言えるのはせいぜい、「常識に沿っている」以外の理論選択基準はあるしそちらの基準が優先されることもある(たとえば事実に合致しているか、など)ということであって、「常識に沿っている理論は(少なくともその点においては)常識外れなことを言う理論よりも優位だ」ということを否定することはできないでしょう。

    そもそも、「事実に合致してなくても常識に沿っている理論の方が良い理論だ」などと言っている哲学者はいないのではないでしょうか。その点を踏まえると、ここでなされている議論は藁人形論法めいたものになっている気がします。


    なお、事実に合致している、は理論選択基準の中でも有力なものだと思いますが、哲学者たちは事実に合致しているかどうかがよくわからない事柄についても議論します。
    道徳的善とはなにか、などの議論で出される立場(たとえば功利主義や義務論)は事実に合致しているかどうかが判定しづらい主張です。また真理とは何か、という問題を扱う際には「真理とは事実と合致していることである」という対応説は論争の中の一つの立場ですから、その論争で「事実と合致している」という基準は使いづらい気がします。

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  2. 年末のお忙しいところご返信ありがとうございます.
    たいがいしつこくなってしまって本当に申し訳ないです.Twitterの方では,こちらの恥ずべき怠惰を補って本文画像を提示いただいてありがとうございます.

    さて,ぼくの疑問は,哲学的な理論の比較で「常識」がいったいどれくらい重視されるものなのかということです.この架空の事例の要点は,「さすがにこういうときに常識を優先することはないはず」という点をはっきりさせることでした.ここでの話が藁人形論法めいているとのご指摘はそのとおりだと思います.ただ,理論比較の基準が複数あるなかで「常識」はそのひとつにすぎないという穏当な立場(もともと訳註でお書きのとおりの立場)をとるとして,それでは「常識」基準の出番がどれくらいあるのか,いまひとつわかりかねています.

    常識がどこまで尊重されるのかに関連するのが,コメントの前置きで書かれている2点目のご指摘です:「ぺとぺとさんが連れて来られてきた上でぺとぺとさんの存在を信じるか、というアンケートにしないといけない」という点は,データまたは事実によって常識がアップデートされることが背景にあるわけですから,ここでも結局は事実が重視されているように思います.この逆に,たとえばプロパガンダで虚偽を広められた状況での「常識」であってもそれを判断材料にするのだろうか,という点も気にかかります.こうした事例に関して言えば,常識あるいは一般に広く受け入れられた物の見方が重視されるとすれば,結局は,常識は大筋において事実に近いだろうという想定があってのことではないかと思います.他方で,道徳的善をめぐる議論では理論と事実の一致・不一致がそもそも判定しにくいのはご指摘のとおりだと思います.

    話題の発端となった訳註の本文で論じられている美的経験の諸説比較については,訳書を拝読して勉強させていただきます.

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