同じくサール先生のインタビュー本からもういっこ.こちらは,「ファーストオーダー」の哲学と「哲学者が語ったことについての哲学」(いわばセカンドオーダーの哲学)についてサールせんせいが述べてるところ:
たとえば,民主主義に向かって努力すべきであり,民主主義に価値を置くべきだってローティは言うでしょ.でも,「しかし私はみかけと現実の区別をしりぞける」って言うんだよね.でも,民主主義を尊重しようにも,本物の民主主義とインチキ民主主義やらニセ民主主義やらの区別をする用意ができてなきゃやりようがないじゃない.人民民主主義だとか,ヨーロッパのファシズムや共産主義みたいな全体主義的民主主義なんてのがあるわけでね.ああいうのは,たいてい民主主義を自称してるけど,ただのみせかけと言うほかないよね.ホントは民主主義なんかじゃない.
ローティは,「いや,私は真と偽の区別をしりぞけるんだ」って言うよね.それでいて,ナニナニは本当だと信じられることになってると言ってるわけだよ.この手のあからさまな矛盾がページをめくるたびにでてくる.それでやっとわかったんだ,ローティは一階(ファーストオーダー)のベタな哲学的問題をもってはいないんだって.彼が「みかけと現実の区別をしりぞける」って言うとき,それが意味してるのは,プラトンとかデカルトがそれについて述べたことをしりぞけるってことなんだ.ローティがみかけと現実の区別を考えるとき,そこで考えてるのはべつに本当の民主主義とニセの民主主義の区別なんかについてじゃない.彼が考えてるのは,プラトンの洞窟の比喩とか,デカルトが明晰判明な観念について言ったことについてなんだ.彼の考えだと,哲学ってのは本質的にああいう伝統的なテクストに取り組むことらしい〔=二階(セカンドオーダー)のメタな問題〕.
ぼくがじっさいに関心をもってるのは,一階のベタな問題だ.たとえば,ぼくが東洋の絨毯を集めていて,本物のカザフ絨毯とニセモノのカザフ絨毯の区別に関心があるとする.みかけと現実の区別について考えるときには,ぼくは本物の絨毯とニセモノの絨毯について考えるんだ.ぼくにとってはこれが一階の問題.もし誰かがみかけと現実の区別なんてものはないと言ってるなら,そいつは絨毯を集めたりはしないよね.先生やってるとして,学生のペーパーを採点しようとはしないはずだし.
G.F.:ローティもデリダも,偽金で支払われるのは御免こうむるでしょうし.
サール:そうそう.でも,「哲学的な問題ってのはとにかく他の哲学者が書いたテクストからでてくる問題しかない」と彼らは思ってる.それがローティの問題点だね.彼は一階の哲学的問題なんてもってない.ローティには,直接的な,一階の哲学的問題なんてないにひとしいんだ.問題はきまって他の哲学者についてでさ.デリダにもそれは当てはまると思うな.語るのはみんな間テクスト性のことばかりで.一階のベタな問題についてじゃないんだ.
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