2014年9月5日金曜日

批評界隈に見られる「コンスタティブ」「パフォーマティブ」の詮索:東浩紀 (1998)

もとは哲学者オースティンが講義録 How To Do Things With Words で一時的に考案していた「パフォーマティブ」(行為遂行的発語)と「コンスタティブ」(事実確認的発語)という用語を,批評家・作家の東浩紀氏が独特な使い方で使っている.ここでは,その用法を追いかける資料として,同氏の著作から抜粋しておく.

  • 東浩紀「デリダの可能性の中心を読むために」『批評空間』III-18,1998年,pp.6-9. (下記に抜粋したのは,pp.7-8 の範囲;アスタリスクで囲んだ箇所は,原文では傍点を付す.また,(1), (2) といった表記は原文では数字を○で囲む記号)

第一に *スタイル* の,あるいはパフォーマティヴなレヴェル(試論 II 参照).ここには私たちは主に (1)-(2)-(3) の否定神学的道すじの (1) への抵抗を見ることができます.デリダの脱構築は例えばド・マンのそれと異なり,対象となるシステム(テクスト)の単一性を前提とすることができません.したがってその形式化もできません.デリダの読解においては所与のテクストはつねに要素(語あるいは綴り字)の集積へと分解され,テクストの *縁* を越え連想関係の網の目のなかに溶解してしまいます.そしてこの特徴は彼の仕事においては,いかにも「デリダ的」な,ときに恣意的な言葉遊びとしか見えないスタイルに反映されていると考えられます.彼はそこでは著者の意図や語られた概念といった確固たる対象を取り扱うことができず,ただエクリチュールの断片(接頭辞や接尾辞,あるいは gl といった断片)だけを頼りにテクストを読むしかないのです.
第二に *隠喩=概念* の,あるいはコンスタティヴなレヴェル(試論 III 参照).ここでは主に (3) への抵抗が行われています.否定進学的思考が説明するシステム(否定神学システム)は,そこに宿る決定不可能性,システムの限界を *開示しつつかつ同時に縫合する* ある特権的対象の運動によりはじめて安定します.ときにより「呼び声」とも「ファルス」とも「貨幣」とも「代補」とも呼ばれるその対象を,私は試論 II において,デリダのある論文を参照しつつ「超越論的シニフィアン」と名付けておきました.否定神学システムの安定性は,超越論的シニフィアンの循環運動により保証されます.この論理においては,システムはつねに危機に瀕していると述べても,またつねに危機を乗り越えると述べても同じことです.しかしデリダはいくつかのテクストにおいて,まさに,この超越論的シニフィアンの循環=回帰構造そのものが内破される可能性,つまり否定神学的思考そのものの理論的不徹底性を示唆していると思われます.七〇年代以降の彼のテクストに頻出するいくつかの隠喩=概念,とりわけ「郵便」「幽霊」といった語がもつ含意を再検討することは,この観点から強く求められるでしょう.かりに超越論的シニフィアンがシステムの限界を開示しながらそれを縫い合わせず,しかもそのように放置された限界がシステムの内部に無数に漂っているのだとしたら?
第三に *転移* の,あるいはパフォーマティヴとコンスタティヴとが交差し相互に参照しあうレヴェル(試論 IV 参照).ここでは (2) への抵抗が組織され,かつそれはフロイト‐デリダという継承線に深く関係しています.否定神学的思考は決定不可能性を,あるシステム全体の論理がそこで破綻する一点として捉えます.他方郵便的思考はそれを,システムの各要素のあいだで交わされる微視的コミュニケーションと,そこでの確率的錯誤により生じる効果(デッド・ストック)として捉えます.そしてここで「システム」とは人間の認識あるいはコミュニケーション構造のことだと議論を限定すれば,否定神学的思考と郵便的思考とのその対象は実は,デリダに最も大きな影響を与えた二人の思想家,ハイデガーとフロイトとの犀にもおおむね重なると考えられます.ハイデガーにとって現存在が直面する限界(決定不可能性)とは,あくまでもそれ自身の *なかに* あるもの,「死」の自己言及的固有性にほかなりません.他方フロイトにおいては意識が直面する限界は,むしろココのコミュニケーションにおける他社の侵入の痕跡,意識には到達不可能な諸記号のアーカイヴ――「無意識」なり「エス」なりと呼ばれるもの――だと考えられています.意識の統御を離れたところで無数の記号が交通し,迂回し,ときにそのいくつかがデッド・ストックとして意識を脅かすそのモデルにおいては,「死」は主体の中心にぽっかりと空いた穴なのではなく,主体を構成する無数の諸記号jにそれぞれ取り憑く行方不明の可能性(幽霊)として複数的にイメージされるでしょう.七〇年代,とりわけ『葉書』のデリダは私の読みでは,「転移」という精神分析的現象への注目を通じ,無意識へと他者が侵入するさまを理論的にも実践的にも主題としていました.

文章はきわめてわかりにくいが,少なくとも,オースティンが言っていた意味での「パフォーマティブ」「コンスタティブ」とはまったく異なることは確認できる.とくに,東がもちいる「パフォーマティブ」は,「あるいは」で「スタイル」と結ばれていることから伺えるように,言明の内容そのものではなく,なにか独特な文章法によって,なにかを示すことを指しているようだ.

この東 (1998) は,討議用の基調報告として用意されたもので,掲載誌『批評空間』にその討議も掲載されている.そちらでは,さらに口頭での用例が確認できる.


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