2014年6月17日火曜日

ピンカー on 知識の呪い

Edge に掲載されたスティーブン・ピンカーのインタビューから,「知識の呪い」について話してる箇所だけ,抜粋して訳しました.

ここに訳したものは授業のおまけとして用意したもので,この箇所でとくにすごいことを言ってるわけではありません.

インタビュー全体は,この9月に発売予定になっている文章術の新著 The Sense of Style に書かれている内容のつまみ食いみたいな感じなんでしょうね.

他にも,意識しておくと文章が上手になれる心理学の話があります.ときに「知識の呪い」と呼ばれてる現象がそれです.これの呼び名はいろいろありますし,心理学者たちはなんども再発見を繰り返してきました.たとえば,「心の理論」の欠陥だとか,自己中心主義だとか,後知恵バイアスだとか,虚偽意識,なんていう風にも呼ばれています.これはどれも,人間なら誰だって免れられない欠陥の異名です.その欠陥とは,自分が知ってることは,それを知らないでいるのがどんな感じなのかなかなか想像できないってことです. 
子供を見てみるといちばんわかりやすいですね.有名な実験があります.ちいさな子供が部屋に入ってくると,そこにはお菓子の箱があって,あけてみると中身は鉛筆で,子供は予想を裏切られます.さて,それからこの子にこう尋ねます――「さあ,ジェイソンくんもこの部屋にやってくるよ.ジェイソンくんは,箱の中身はなんだと思うかな?」 するとこの子は「えんぴつ」と答えるんです.もちろん,ジェイソンには箱の中身が鉛筆だなんて,知るよしもありません.でも,この1人目の子供は,自分の知識状態をジェイソンにも投影してしまって,自分が知ってることを他人は知らないかもしれないってことを忘れてしまうんです. 
やっぱり子供だねぇとぼくらは笑いますけど,でも,これはぼくらみんなに当てはまることです.文章を書くとき,ぼくらはいろんな専門用語や短縮表現を使いますし,典型的な実験手法だとか研究で問う問題に関するいろんな想定も利用します.こういうことを,読者は知るよしもないかもしれませんよね.だって,ぼくらが受けたのと同じ訓練を受けたわけじゃないんですから.知識の呪いを克服することこそ,聡明な書き手になるためにいちばん大事な条件かもしれません. 
知識の呪いには,他にも含意があります.それは,編集者はほんとにありがたいものだってこと.典型的な読者からあらかじめフィードバックをもらわなくても,カンペキに理解可能な,明瞭で首尾一貫した論考をササッと書いてのける人もたまにはいますけど,ぼくらの大半はそんなにものがよく見とおせるわけじゃないですよね.「ぼくにはここがわかんないよ,いったい何を言ってるの?」って言ってくれる相手がぜひとも必要なんです.いったん書き終えた文章の句読点とか文法とか文構造といった細やかな部分に注意を向けてくれる手練れの校閲者がいれば,創作の価値を高めてくれることは言うまでもありません. 
「学術的な文章が悪文なのは大学教授どもがもったいぶったワケワカラン難解語で読み手を煙に巻こうとしてるせいだ」なんて非難の声をよく聞きますけど,実はそれと反対で,悪文の大半はわざとそう書かれてるわけじゃないんだろうと思うんですよ.実際は,たんにヘタなんだと思いますね.読者のみなさんの頭のなかを把握できていないんです.それに,心理学でわかっているように,読者の頭のなかを把握しようといっそうがんばってみても,理想的な方法にはなりません.どんなにがんばって他人の知識状態を予想してみたって,せいぜいのところ,まあまあの出来にしかなりません. 
そうじゃなくて,質問すべきなんです.みんなに草稿を見せて尋ねるんです.シロウト向けに書いているときにも,下読みをしてもらう相手は,べつにシロウトでなくてかまいません.誰にも見せないよりは,〔同じ学者・専門家の〕同僚にでも見せた方がマシです.ぼくが一目瞭然だと思っていたことが,実は他人にとってはそれほど一目瞭然じゃないと知ってびっくりすることなんて,しょっちゅうですよ.

2016年05月28日追記: 子供の誤信念課題に関する文献として,Sense of Style では次の論文を参照している:



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