味覚述語 Taste Predicates
「このベジマイトサンドイッチはおいしいね」("This vegemite sandwich is tasty") とジョーが言う.そうすることで,ジョーはこのサンドイッチを好むことを表出している.だが,ジョーがやっているのはそれだけなのだろうか? ジョーは何事かを確言していないのだろうか? また,もし確言しているのだとしたら,その確言が正確かどうかを左右するのはどんなことなのだろう?
文脈主義者 (Contextualists) は,ジョーはこのサンドイッチと自分との関係について――あるいはこのサンドイッチと特定の味覚 (a certain body of tastes) との関係について――何事かを確言しているのだと考える.だが,そうだとすると,たとえばジョーと味覚・味の好みが大きく異なるサシャがどうしてジョーの確言を却下するのか不可解になる〔おっと,サシャがジョーに異論をはさむ例文が見当たりませんよ,マクファーレン先生?〕.これと対照的に,〔評価文脈〕相対主義の考えでは,ジョーの確言は話し手に相対的にではなく評価文脈に相対的にのみ,正確かそうでないかに分類できる.ジョーはベジマイトの味が大好きな一方でサシャがベジマイトの味をいやがっているなら,ジョーの確言はジョーには正確と評価される一方でサシャには不正確と評価される.また,のちのちにジョーがベジマイトの味をきらうようになったら,ジョーのかつての信念は現在の文脈に相対的に不正確になり,ジョーがこれをまちがいだと考えるのも正当となる.このように,相対主義は味覚主張の主観性を――味覚主張が正確かどうかが味覚に左右されることを――うまくとらえようと試みる一方で,さまざまな食べ物が個人や集団の味覚とどう関連しているかだけの問題に還元してはいない.(右を参照: Kölbel 2002, Lasersohn 2005, 2009, Stephenson 2007, MacFarlane 2007; 批判については, Glanzberg 2007, Cappelen and Hawthorne 2009, ch. 4 を参照.)
補足: 味覚述語のおもしろいところ,味や好みに関する意見の相反
「~はおいしい」のような味覚・味の好みを表す述語にはおもしろいところがある.はっきり言葉で言われていなくても,その味を評価するなにものかが暗黙に勘定に入れられるところだ.タミナ・スティーブンソンが提示している次の例を見てみよう (Stephenson 2008: 498):
Mary: How’s that new brand of cat food you bought?(キミが買ったあの新ブランドのキャットフードはどう?)この例では,明らかにキャットフードを「おいしい」(is tasty) と評価している(と考えられている)のはサムの猫であって,話し手であり主節主語 I でもあるサム当人ではない.味の判定者役割 (judge) が暗黙に補われてはじめて意味の通じる発言になる.
Sam: I think it’s tasty, because the cat has eaten a lot of it.(おいしいと思うよ,うちの猫がたっぷり食べてたから)
これは余談だけど,さらに興味深いのは,it's tasty が埋め込まれている主節 I think の主語 I(=サム)は,必ずしもこの味の判定者でなくていいという点だ.これもスティーブンソンの指摘によると,法助動詞ではここまで融通がきかない:
Mary: Wow, the dog really likes the dog food you’re feeding him.(へえ,この犬,キミがあげてるドッグフードがほんとに好きなんだね)この例では,犬が食べたがってるモノ ('it') が飼い主たちの食べ残し「かもしれない」と値踏みする主体は話題になっている当の犬だと解釈するのがいちばん妥当ではあるものの,文法的にそれは許容しがたい(例文についているシャープ # の記号は容認しがたい例であることを示している).
Sam: (#)Yeah, I think it might be table scraps.(そうなんだよ,食べ残しかもしれないんだと思うよ)
ともあれ,is tasty のような味覚述語の意味理解に味の判定者かなにかの役割を仮定するのは理にかなっているように思える.
でも,それだけだと説明しがたい事実が残る.これまたスティーブンソンの指摘と例文を参照しよう.まず,次の例をみてほしい.ケーキがおいしいかどうか,パーティがたのしかったかどうかで意見が相反している例だ (Stephenson 2008: 492):
Mary: How’s the cake?(ケーキの味はどう?)
Sam: It’s tasty.(おいしいよ)
Sue: Nuh-uh, it isn’t tasty at all!(えー,ぜんぜんおいしくないよ!)
[OR] No it isn’t, it tastes terrible!(そんなことないよ,ひどい味だよ!)
Mary: How was the party?(パーティはどうだった?)このやりとりは,ごく自然なものに見える――おいしいかどうか,たのしいかどうかについて,「それはちがうよ」と相手の言ったことを否定したり意見を対立させることができる.だけど,is tasty や「~はおいしい」のような述語の理解で暗黙に「~にとって」が補われているのだとしたら,そんな風に意見が相反しなくなってしまうんじゃないだろうか? つまり――
Sam: It was fun.(たのしかったよ)
Sue: Nuh-uh, it wasn’t fun at all!(えー,ぜんぜんたのしくなかったよ!)
[OR] No it wasn’t, it was no fun at all!(そんなことなかったよ,ぜんぜんたのしくなかったよ!)
A:「ケーキの味はどう?」このやりとりの Bくんと Cさんの発言で暗黙に「自分にとって」の相当する要素が補われているのだとしたら,お互いの言い分はぜんぜん矛盾しない.蓼食う虫も好き好き,ぼくにとってはおいしい,キミにとってはおいしくない,それでおしまいになるはずじゃないか.
B:「(ぼく=Bにとって)おいしいよ」
C:「えー,(わたし=Cにとって)ぜんぜんおいしくないよ!」
英語でも同様らしく,スティーブンソンは次の例を示している (ibid.):
Mary: How’s the cake?(ケーキの味はどう?)
Sam: It tastes good to me.(ぼくにとってはおいしいよ)
Sue: #Nuh-uh, it doesn't taste good at all!(えー,ぜんぜんおいしくないよ!)
[OR] No it isn’t, it tastes terrible!(そんなことないよ,ひどい味だよ!)
Mary: How was the party?(パーティはどうだった?)サムの発言に「ぼくにとって」(to me / for me) を明示的に入れたバージョンだと,スーが「それはちがう」と異論を挟むのが不自然になるのだそうだ.
Sam: It was fun for me.(ぼくにとってはたのしかったよ)
Sue: #Nuh-uh, it wasn’t fun at all!(えー,ぜんぜんたのしくなかったよ!)
[OR] #No it wasn’t, it was no fun at all!(そんなことなかったよ,ぜんぜんたのしくなかったよ!)
ということは,「ぼくにとって」のように評価する何者かを明示したバージョンと,明示していないバージョンでは,なにか意味がちがうわけだ.
これは,「過誤なき不一致」(faultless disagreement) と呼ばれる例にも関連している.レイザーゾーンの本 (Lasersohn 2017: 7) から例を引用しよう.ジョンとメアリーが同じジェットコースターにいっしょに乗ったとしよう.メアリーは心底たのしんだ一方で,ジョンは上がったり下がったりで気持ち悪くなって吐き気を催してしまう.この状況で,2人がこんなやりとりを交わす:
メアリー: This is fun!(これ,たのしい!)
ジョン: No, it isn't!(たのしくないよ!)
2人はジェットコースターがたのしい (is fun) かどうかについて,意見を対立させている.でも,どちらかの言い分に過誤があるわけでもなさそうに思える:心底たのしんだメアリーが「これ,たのしい」というのも,吐き気を催してしまったジョンが「たのしくないよ」というのも,どちらももっともなことだ.ということは,どちらの言い分も偽でないけれど(見かけのうえで?)意見が相反するケースがありえるってことだろうか? そういう「過誤なき不一致」はほんとにあるのか,それともこういう事例についてぼくらが見落としてる大事なポイントがあるんだろうか?
マクファーレンの本文で,味覚述語の主観性だけでなく「ベジマイトサンドイッチはおいしい」「いやおいしくない」と意見が相反できることも説明しないといけない,相対主義ではそこもうまくやれるんだ,と言ってるのはこうした問題をふまえているらしい.さんしょうぶんけん
- Lasersohn, Peter. Subjectivity and Perspective in Truth-Theoretic Semantics. Oxford University Press, 2017.
- Stephenson, Tamina. "Judge dependence, epistemic modals, and predicates of personal taste," Linguistics & Philosophy (2007 30: 487-525.
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