2017年11月29日水曜日

『消費資本主義!』「訳者あとがき」の余り物

いろいろネタだしはしてみたけど指定された字数にぜんぜん収まらないので,ほぼ全部カットしてしまったよ.下記はその一部:


ミラーがいう消費主義の虚妄,消費主義の「薄汚れた秘密」とは,いろんな見せびらかし消費が送るシグナルの力が実態より大幅に誇張されているということです.実際のシグナリングの力はお値段にぜんぜん見合っていない,それにぼくらにはもともとちょっとした会話からでも相手のビッグファイブ特徴や知性をかなり正確に読み取る能力が備わっているのに,わざわざいろんな製品に見せびらかしプレミアム料金を払わなくていいんだ——著者はそう言います.なるほどそうかもしれません.ですが,シグナリングの威力がまぼろしだってことも半ば承知の上で,あたかもすごい資質のシグナリングができているかのような幻想にお金を出しているとしたら,どうでしょう? 「きみたちは消費主義をあおるマーケティングの魔術にハマって,ありもしないシグナリングの力を信じてお金を差し出している.そんな夢からさっさと覚めたまえ」と言われても,「うるせえ! この仮想現実と自己欺瞞に包まれて生きていたいんだよ! じぶんをごまかしながらじゃなきゃ生きてられねぇんだよ!」という言い分があってよさそうなものです.

こうした人たちにとって,いろんな製品に上乗せされた見せびらかしのプレミアム,「自己愛プレミアム」とは,実のところ自己欺瞞プレミアムに等しくなるでしょう.週末のお買い物で手に入れているいろんな品々が発する「ほらほら,この持ち主はなかなかの開放性を持ち合わせてるよ」「おっとそこのお嬢さん,このお兄さんは堅実性が大したもんですぜ」といったシグナルを周りのみんながわざわざ気に留めて素直に信じてくれている——ちょっとありそうにないことだけれど,持ち前の自己欺瞞を発揮してそんな気分に浸っていたい,そのための対価を払っていることになります.

経済学者のタイラー・コーエンが「経験機械」について述べたコメントが,ここでもうちょっと考えをすすめるヒントをくれます (Cowen 2009).経験機械とは,哲学者のロバート・ノージックが思考実験のために提示した架空の存在です (Nozick 1974: 42-45).この機械につながれば,どんな経験だろうと精密きわまりない神経刺激によってのぞみのままに味わえます.ただし,そうした経験は「現実」ではなく,どんなに幸せを実感していようと,当人はどこかのタンクのなかにぷかぷか浮かんだまま,経験機械につながれているだけです.みなさんは,この経験機械によろこんでつながりたいと思うでしょうか,それとも,「そんなのは御免こうむる」と拒絶するでしょうか?

この思考実験を使ってノージックは「経験のほかに我々にとって重要なこと」を考察していくのですが,コーエンはそこに待ったをかけます.問題は「経験機械につながるかどうか」ではなく経験機械がもたらしてくれるような幻想を「どれくらい」のぞむか,だというのです.しかも,私たちはそういう経験機械にとっくに接続済みじゃないか,とコーエンは言います:

《ぼくは,すでにとある経験機械に接続する意思決定をすませてる.あるいは,少なくとも接続をやめない決定をすませてる.その経験機械とは,人間の心のことだ. 》

消費資本主義が次々に提供してくれるいろんな商品が約束する誇大なシグナリングの力をどれだけ自己欺瞞によって信じるかというのも,同様の「どれくらいの幻想をのぞむか」という問題のバリエーションです.虚妄ではあっても,心地よい虚妄ならそれに浸るためにお金を出したいという言い分だってあるでしょう.ミラーにとっては,虚妄であるからには,そんなものにお金を出すには及ばない,私たちはもっと安上がりにやっていける,という話にすぐさまつながるのだとしても——現実のシグナリングの力を求める人にとっては虚妄から覚めることがなるほどのぞましいのだとしても——シグナリングの幻想でじぶんを騙していたい人にとっては,「虚妄でもいいんだよ,そっとしておいてくれよ」となっておかしくありません.
――まあ,だいたいこういうのはあとになって「いやー,やっぱりあんなのはカットして正解だった」ってなるもんだよね.


0 件のコメント:

コメントを投稿