著者は,《伝達「手段」として,あるいは,透明な媒体として見られがちなメディア自体もまた,メッセージ=伝達「内容」である》(p.152) と述べたあとに,その例示として,戦時中に米軍がまいたビラのエピソードを引く.
《とくに説得力をもったビラは,次の空襲目標とその予定日を事前に知らせるものであった.ビラの伝える予告が「実現」するにつれ,米国の宣伝ビラの信憑性は増していく.》――これはおかしくない.
《加えて,ビラというメディア自体が持つメッセージも内容の信憑性を増すことに貢献した.》――ここからおかしい(強調は引用者).
著者は,川島『流言・投書の太平洋戦争』から次の一節を引く:「母は,アメリカが世界中の原料をすべてもっているにちがいないと申しました.私がビラを母に見せましたところ,母は,「見てごらん,ビラをまくのにこんな立派な紙を使ってるなんて」と申しました」
著者は続けてこう述べる:《ビラに何が書かれているかは問題ではない.メッセージはビラの紙質にあるのだ.ビラの紙質は,書かれている内容以上に雄弁に米国の豊かさ,そして日本の戦況が芳しくないことを伝えたのである》(p.153).
ビラにすら立派な紙を使えることは,たしかに米国の物資が豊かなのを伝えるシグナルになっている.たぶん,それが伝わることも米軍は意図していたんだろう.だとしても,これは「メディアはメッセージだ」という話にしなくていい.たんに,シグナリングの一例だと考えた方が一般性をうまくつかまえられるはずだ.
たとえば,立派な服装をすることは当人の豊かさや階層やセンスのシグナリングになるし,銀行が立派な建物をつくって営業すれば,容易に逃げることはないという信頼性のシグナルになる.
じゃあ,これは「伝達」かと言うと,そうではない.なぜなら,なにかを情報を与える意図(情報意図)はあるとしても,その情報意図を相手に読み取らせるという伝達意図なしに,こうしたシグナリングは成立するからだ.(伝達に関する情報意図と伝達意図の区別は,スペルベル&ウィルソン『関連性理論』pp.25-27 を参照)
ぼくのお気に入りの例は,野矢茂樹『哲学航海日誌』で挙げられている,こんなやつだ:
- 《場面1:私はゆで卵をむいている.むき終わった私は,塩を目で探すがなかなか見つからない.それを察知した彼女が,気をきかせてティーポットの陰にあった塩をとってくれる.》
- 《場面2:私はゆで卵をむいている.むき終わった私は,彼女の方を見て,彼女の目の前にある塩を指さす.彼女は塩をとってくれる.》
場面1でも,塩を探しているという情報は「彼女」に伝わっていて,だから彼女は塩を取って渡してくれている.だけど,ここでは伝達(コミュニケーション)はなされていない.
場面2では,言葉を発してこそいないけれど,塩に「彼女」の注意を向ける行動でこちらの伝達意図を明示することによって,「私」が伝えようと意図する内容を推論させている.
マクルーハンなどがいう「メディアはメッセージ」には,そうした区別がない.伝達意図のない(あってもなくてもかまわない)シグナリングと,伝達意図を必要とするコミュニケーションが区別されないまま,とにかくなにか情報が伝えられれば,それを「メッセージ」と呼んでひとくくりにしてしまう.これでは,べつべつの仕組みに基づいている現象を取り上げながら,そのちがいに無頓着なまま,いかにも逆説めいたフレーズ当てはめておしまいになってしまう.
――という雑な感想を Twitter でツイートしようかと思ったけど,思った以上に長々しくなってしまったので,ブログというチラシの裏に書き殴ってみた.
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