2021年1月9日土曜日

古い訳文をサルベージ:アルヴァ・ノエ「ジェンダーは死んだ! ジェンダーよ永遠なれ!」(2011年)

 Alva Noë, "Gender Is Dead! Long Live Gender!" NPR, June 24, 2011.

バークレーの哲学教授が NPR に書いた文章を,むかし訳してたなぁと思って掘り出してきた.この文章は,たとえば「女性とはこういうもの」「男性とはこういうもの」という概念カテゴリーが,プライミング(呼び水効果)をとおして当人の行動に影響するという点を強調している.

以下,訳文.


頭のなかで,物理学教授のすがたを思い描いてほしい.彼の暮らしがどんなものだか,想像してみよう.ほんの一時でいいから,彼になったつもりになってみよう.この物理学教授であることがどんなものだか,感覚をつかんでみるんだ.

さて,ここで仕切り直し.こんどはチアリーダーのことを思ってみよう.彼女を思い描いてみよう.彼女の暮らしがどんなものだか想像してみよう.彼女になったつもりになってみよう.このチアリーダーであることがどんなものだか,想像してほしい.

ノースウェスタン大学の心理学者アダム・ガリンスキー と共同研究者は,まさにこういう作業を実施してみた.その結果,おどろくべきことがわかった.この課題をやったあと,被験者たちに自分の特徴を挙げてもらった.すると,教授の視点をとるよう想像した人たちの方が,チアリーダーの人格を割り振られた人たちよりも,じぶんのことを利発だと述べることが多かったんだ.また,チアリーダーの視点をとるよう想像した人たちは,これと同じくらい,じぶんのことを華やかだと記述することが多かった.

これでおしまいじゃあない.この課題は,テストでの成績にも現に影響を及ぼした.なんと,分析的知能のテストで,教授に同一化した人たちはチアリーダーに同一化した人たちよりも成績がよかったんだ.

この研究は,他の類似の研究といっしょに,コーデリア・ファインのすばらしい新著『性差という幻想』(Delusions of Gender) に取り上げられている.彼女は,性差の心理学的・神経学的な基盤に関する研究を公正かつ詳細に検討している.彼女の発見は,明快かつ説得力がある.「男女間のどんな認知的・人格的な相違も,わずかな例外を除いて男女の内在的な生物学的・心理学的な相違に帰すことはできない.少なくとも,いまの知識水準では不可能だ」――これが彼女の発見だ.

とはいっても,男女にちがいがないってことじゃあない.

いまさっき取り上げた研究をみてみよう.テストの成績にはたしかにちがいが認められている.これは現実の行動の相違だ.たとえば仕事での業績を容易に左右しうる相違だ.でも,この相違の原因はなんだろう? テストを受けた個々人の性質・成り立ちじゃあないね.これを統制している要因は,テスト前に個々人にやってもらった想像の課題という偶発的な事実だ.

これは華麗にして優美な発見だ.なにしろ,人間の生活に広く深く行き渡っているなにごとかを明らかにしているんだから.

人間は,たんにあれこれのカテゴリーに分類されるだけじゃあない.ぼくらはたまたま教授になったりチアリーダーになったりアメリカ人になったりパキスタン人になったりするわけじゃない.ぼくらは,こうした種類にじぶんが属していると考えている.そして,そういう風に考えていることにともなって,一揃いの信念・態度・感覚・関心・不安・期待がいっしょにやってくる.

こんな問いを考えてみよう:「古代ローマに異性愛者はいたか?」 読者はこういうかもしれない:「あったりまえじゃん.なんたって,性的欲求の主な対象が異性の相手だった男女がいたんだから」

でも,見方を変えてみると,答えはきっとこうなる:「いやあ,どうかな.なんたって,古代ローマ人はじぶんたちのことをストレートとは思ってなかったんだし.少なくとも,いまのぼくらが言う意味での「ストレート」とは思ってなかったわけでしょ.それに,ゲイ・ストレート・クィアその他の概念のマトリクスは存在してなかったし,こうした概念がいまのぼくらに喚起する価値の負荷もなかったしね.」 

薄い記述においては,たしかに当時の人々も異性愛者だったかもしれない.でも,もっと厚い記述において,異性愛なんてものはなかった.

異性愛だの教授だのチアリーダーだの,こういうカテゴリーは,カナダの科学哲学者イアン・ハッキングのいう「ループ効果」を発揮する.じぶんのことをあれやこれやに分類して考えられるのは,まさにそのあれこれの概念をじぶんがもっている場合にかぎられる.そして,ひとたびじぶんを特定の種類の人物だと考えると,意識的・無意識的な選択によって,まさにじぶんをそういう種類の人物にしたりしなかったりできるようになる.この点で,みんなはじぶんのアイデンティティを構築できるんだ.ただ,それにはそもそもカテゴリーが利用可能でないといけない.ハッキングはこう書いている:

「ループ効果はいたるところにある:じぶんのことを天才とみなしていたロマン主義者たちにとって《天才》というカテゴリーがどんなものだったか,そして,彼らのふるまいが《天才》というカテゴリーにどういうことをしたか,考えてみるといい.肥満,過体重,拒食症患者といった概念によってもたらされる変換について,考えてみるといい.」

とはいっても,教授やチアリーダーになるのと同じようにストレートになる意志決定をしてるって意味じゃあない.そうじゃなくて,ぼくが言わんとしているのは,ストレートであることは,たんに一定のふるまい方をすることやその傾向をもつことに尽きないってことだ.これは,じぶんに関する考え方の問題だ.じぶんについてこうだと考えると,それに伴って,一揃いのたがいに入り組んだ性質・限界・期待がやってくる.そして,これらがぐるっと回ってぼくらの行為や行為への傾向に影響する.

これは男性・女性という概念についても同様だ.

ファインが自著で取り上げている他の研究 を考えてみよう.ある私大の学生たちに,空間推論課題をやってもらった.テストの前に,学生たちのうち一方のグループには,じぶんの性別を記入してもらい,もう一方のグループには大学名を記入してもらった.こうして,一方のグループは性差のアイデンティティに照らしてじぶんを考えるよう「プライム」〔呼び水〕がなされ,もう一方のグループは「私大の学生」カテゴリーのもとでじぶんについて考えるようプライムがなされた.

性別について考えるようプライムがなされた男子学生たちは,私大の学生としてじぶんのことを考えるようプライムがなされた男子学生たちより,成績が有意に上回った.この正反対も女性で観察された.私大の学生としてじぶんのことを考えるようプライムがなされた女子学生たちは,性別について考えるようプライムがなされた女子学生たちよりも,成績が有意に上回った.

まるで,たかが「男性? 女性? 学生?」という質問で,学生たちにじぶんがどんな種類の人物だったか想起させただけで,テストでの成績が決定されたかのようだ.

こうした研究の意義は多方面にわたる.ここからは,ぼくらの自己アイデンティティの正当性は神経生物学にはみつからないだろうと示唆される.もし生物学が万物の尺度なら,ぼくらがじぶんのグループ分けに使っている多くのカテゴリー(男性・女性,ゲイ・ストレート,黒人・白人,教授・チアリーダー)は非実在ってことになる.自然界にはそんなものはみつからない.自然界に関するぼくらの態度や信念から独立に,自然界は存在しているからね.でも,それと同時に,ぼくらがしかじかの存在として味わう経験ほど,現実的なものもないんじゃないだろうか? 

問題:「あなたは,もし可能なら自己アイデンティティからじぶんを解放したいだろうか?」

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