2018年4月20日金曜日

バトラーせんせいのダジャレ論法の一例

ジュディス・バトラーせんせいの 1988年の論文の冒頭は,専門外のぼくにとって,この人の手法を垣間見ることのできる一節となっている:その手法とは,ダジャレだ.面白くもなんともないし,実は中身のとぼしい話でしかないものを,なにやら深い話をしているように思わせるのに言葉の多義によるダジャレを使っている.


下記の引用で,太字強調した単語はすべて2通りの意味にとれるし,話の流れからどちらの意味にもとれるような印象を与える:
Philosophers rarely think about acting in the theatrical sense, but they do have a discourse of 'acts' that maintains associative semantic meanings with theories of performance and acting. For example, John Searle's 'speech acts,' those verbal assurances and promises which seem not only to refer to a speaking relationship, but to constitute a moral bond between speakers, illustrate one of the illocutionary gestures that constitutes the stage of the analytic philosophy of language. (Butler 1988: 519) 
苦しいけれど,日本語に訳してみよう:
哲学者たちは acting{演技/行為}を芝居の意味では滅多に考えないが,彼らも performance{実演/行為遂行}と acting{行為/演技}の理論との連想的な意味論的意味を維持する 'acts'{演技/行為}の言説を有している.たとえば,ジョン・サールの「言語行為」は――話す関係を指示するだけでなく話者どうしの道徳的つながりを構成する言語的な言質や約束は――言語の分析哲学の stage{舞台/場所}を構成する発語内的な身振りのひとつを例示している.
この一節は,ある主張を述べたうえで,「たとえば」のあとにその主張に該当する例を示す段取りになっている.けれども,その主張もあやふやだし,例示の方もなにを言っているのかわかりにくい.

一読すると,こういう趣旨に思うかもしれない:
  • 哲学者たちはお芝居の「演技」については滅多に考えないけれど,実は演技と行為を関連づけて考えているよ.→たとえばサールはそうだよ.
でも,そうじゃない.サールに言及してる部分をよく見てみよう.
サールの「言語行為」は(…)言語の分析哲学の stage{舞台/場所}を構成する発語内的な身振りのひとつを例示している.
ここで言ってるのは,サールが演技と行為を関連させているってことじゃなくって,約束のような「発語内的な身振り」が言語の分析哲学の「場所・段階」(stage) をつくっているということだ(なんのこっちゃだけど).少なくとも,ここに出てくる stage は文字通りにお芝居の「舞台」の意味で解釈するのには適さないように思えるけれど,stage という単語に「舞台」の意味もあるのは確かだ――そして,おそらく,バトラーが言ってるのはまさにそれだけでしかない.もしも stage で「舞台」の意味を思い浮かべなかったら,「たとえば」をはさんで話がつながらなくなってしまう.だって,他にお芝居と関係するような要素はひとつもないでしょ?(「身振り」があるといえばあるかな.だけど,「発語内的な身振り」なんて言語行為論ではまずお目にかからないフレーズだよ.) しかも,その stage は別にサールの文章の引用にでてくるわけでもなく,バトラーが言語行為についてそれっぽくまとめた言い回しにうまくはめ込んでいるだけだ.

上記の引用でバトラーがむずかしげな言葉づかいで言えてることは,せいぜいこんなことだ:

  • act, acting, performance はどれもお芝居に関わる意味でも使われていて,こういう言葉が哲学論議にも出てくるよ(ただしお芝居の意味を意図して使っているわけじゃないけどね).→たとえばサールの議論の位置づけについても stage を「舞台」と「場所・段階」の2つの意味にあいまいに使いながらまとめられるよ.

これなら,サールその他の研究者がなんと言っていようと,どうとでも言える.彼らがなにを言っているかはまったく関係ない.とにかくact, acting, performance といった言葉にお芝居関係の意味がありさえすればいい.

つまり,バトラーの上記引用の芯にはこれだけしかない:

  • act, acting, performance にはお芝居関係の意味があります!

なるほどそれならまちがいなく正しい.そして見事にどうでもいい.

さんしょうぶんけん

  • Judith Butler, "Performative Acts and Gender Constitution: An Essay in Phenomenology and Feminist Theory," Theatre Journal, vol.40, no.4, (1988), pp.519-531. 

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