2019年12月9日月曜日

日本語と英語のちがいについての,ありがちな観察の一例(丸山 & 加藤 1997)

往年の文芸評論家と政治学者が近代日本の翻訳について雑談してる昔の新書から,英語と日本語のちがいについてありがちな観察を語っているところを発掘した.とりあえずは,コメントせずに抜粋だけしておく.あとで加筆するかも.(丸山真男・加藤周一『翻訳と日本の近代』岩波新書,1997年,pp.85-88)

〔加藤発言〕三番目は、ジェネラリゼーションです。あるいは数のあらわし方。「すべての」と「若干の」「ひとつの」「任意のひとつの」ということについて、英語ではかなりの程度まで、冠詞を使って表し、それから all とか some とかいう言葉でも表すでしょう。それは日本語ではふつう言わない。「江戸時代の幾人かの侍が......」とか、「すべての侍は......」とは言わない。ただ「侍は......」と言う。冠詞がないのですから、わからないですね。これを、訳でどういうふうにしているか、というのはとてもおもしろいことだと思うのです。 
丸山:いや、訳だけではなくて......。自分のことを言ってはおかしいけれど、大学紛争のときに、全共闘の学生が「学生は......」と言うから、「あんたの言う学生とは、誰のことですか」と聞いた。安田城に籠もっている人たちなのか、別の学部に籠もっている反対派なのか、それとも参加していないノンポリなのか、と。ちょっと意地の悪い挑発だけどさ、一般的にはそういうことですよ。
それがさっきの「すべての」にも関係するんです。「日本国民の総意」という日本国憲法第一条の政府原案にも関係する。この言葉で、日本人民が自由に表明した意志が象徴天皇制の根源だ、という「原文」の趣旨を表わしたのは非常な狡知です。悪い意味で意識的操作だけどね。非常に強い言葉でしょう。なぜなら、ふつう言わないから。満場一致で賛成するというときだけ「総意により」とはいいますが、ぼくは「総意」をいれたのは「一億一心」思想の連続であって、新憲法の原則からすればインチキだと思うんだ。ただ“ the sovereign will of the people” に天皇の象徴的地位は基づいているとあるのを、「主権の存する日本国民の総意に基づく」と訳したのは、意識的に日本語の盲点を突いたと思うのです。もし、読者が敏感なら、なんで「総意」というのかと突き返すと思うのです。そこのところをあまり突かなかったね、「一人か」「大勢か」「すべてか」という...... 
加藤:そうそう、いまのふつうの日本語では、「一人か」「大勢か」「すべてか」、その区別がはっきりしていない。群論では、それは致命的な問題になります。群論的にいえば「ゼロか」「数人か」「全部か」ね。「一人」は「数人」のなかに入るのだけれども、それだけ;で、大変なちがいなのです。そこをあいまいにすると、論理が成り立たない。
これはそういう論理上の問題ではないけれど、英語のほうがそういうことを意識して区別している場合が多いと思うのです。江戸時代の散文にはあまりない。その食い違いをどう処理したかというのは、翻訳問題として非常に興味がある。どう訳したのか、あるいは訳さなかったのか。

0 件のコメント:

コメントを投稿