2015年1月22日木曜日

文献メモ:クローディア・ビアンキ「指標詞,言語行為,ポルノグラフィ」

別に著者の主張に賛成するわけではなくて,こういうのがあったのを忘れてたのでここにメモっておく:
  • Claudia Bianchi, 2008. "Indexicals, speech acts and pornography," Analysis 68:4, October 2008, pp.310-16. 
なお,論文は著者のページで閲覧できる(いま気づいた).

【要旨】
過去20年で,録音メッセージや書き付けは,指標表現の意味論にとって重要なテストにして思考を喚起するパズルとなってきた(Smith 1989; Predelli 1996, 1998a, 1998b, 2002; Corazza et al. 2002; Romdenh-Romluc 2002 を参照).とりわけ,Stefano Predelli が提起した意図基盤のアプローチは,言語の哲学におけるいくつかの大きな問いに興味深い関連があることがわかっている.近年の論文で,Jennifer Saul (2006) は指標詞と録音メッセージに関する文献を参照して,Rae Langton による次の主張を批判している.すなわち,ポルノグラフィ作品は発語内行為として理解できる――とくに,女性を従属させる行為や女性を沈黙させる行為として理解できるというのが,その主張である.Saul の論証によれば,ポルノグラフィ作品を言語行為として理解するのは意味をなさない.なぜなら,文脈における発話しか言語行為として理解できないからだ.もっと正確に言うなら,映画のようなポルノグラフィ作品は,さまざまな文脈で使用できる録画・録音 (recordings) と見ることはできる――ちょうど,書き付けたメモや留守番電話メッセージと同様のものと考えることはできる.Saul によれば,文脈を考慮に入れると,Langton の急進的な説の論拠は弱まる――大きく弱めたかたちで定式化しなおさなければならなくなる.文脈における発話のみが言語行為たりうるのであり,したがって文脈におけるポルノグラフィー作品のみが女性を沈黙させる発語内行為として考えることができるという Saul の主張を本稿では受け入れる.だが,Saul による再定式化は Langton の説を弱めるものではないことを示す.この目的のため,ここでは,録音メッセージの指標表現が見せる意味論的なふるまいを説明するために Predelli が提案した区別を用いる――すなわち,発話文脈と解釈文脈の区別を用いる.

▼ セクションの見出し
1. ポルノグラフィーと言語行為
2. 指標詞,書き付け,文脈
3. 意図された文脈とポルノグラフィー
4. 結語
Saul の論文はコレ:
  • Jennifer Saul,  2006. "Pornography, speech acts and context." Proceedings of the Aristotelian Society 106:229–48.  
このあたりの議論は,スタンフォード哲学事典の下記項目(とくにセクション 2.2)を参照するといいようだ:




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