2015年1月27日火曜日

「言語学の用語は元の英語からしておかしいから心配するな」みたいな

スティーブン・ピンカーの Sense of Style (p.65) [Amazon] から:
And when technical terms are unavoidable, why not choose ones that are easy for readiers to understnd and remember? Ironically, the field of linguistics is among the worst offenders, with dozens of mystifying technical terms: themes that have nothing to do with themes; PRO and pro, which are pronounced the same way but refers to different things; stage-level and individual-level predicates, which are just unintuitive ways of saying "temporary" and "permanent" (...) 
どうしても専門用語が避けられないときには,読者がかんたんに理解して覚えられるものを選べばいい.皮肉にも,言語学はこの指針に反している分野のなかでも最悪の部類で,煙に巻くような専門用語であふれている:「主題」は主題となんの関係もない;PRO と pro はまったく同じ発音なのに別物を指している;ステージレベル述語と個体レベル述語は,「一時的」「永続的」と言えばすむのをピンとこない言い方で呼んでいるだけだ.(…)

サール「デリダはテロリスト的蒙昧主義をやってる」(インタビュー引用)

サールのインタビュー本 Conversations with John Searle (Libros EnRed, 2001)[Amazon] で引用されている「テロリスト的蒙昧主義」の出典と当該箇所をメモっておこう:
Searle: With Derrida, you can hardly misread him, because he's so obscure. Every time you say, "He says so and so," he always says, "You misunderstood me." But if you try to figure out the correct interpretation, then that's not so easy. I once said this to Michel Foucault, who was more hostile to Derrida even than I am, and Foucault said that Derrida practiced the method of obscurantisme terroriste (terrorism of obscurantism). We were speaking French. And I said, "What the hell do you mean by that?" And he said, "He writes so obscurely you can't tell what he's saying, that's the obscurantism part, and then when you criticize him, he can always say, 'You didn't understand me; you're an idiot.' That's the terrorism part." And I like that. So I wrote an article about Derrida. I asked Michel if it was OK if I quoted that passage, and he said yes.
Foucault was often lumped with Derrida. That's very unfair to Foucault. He was a different caliber of thinker altogether.


サール:デリダの場合,誤読しようにも誤読しにくい.なぜって,すごく曖昧模糊としてるからだ.「彼はこれこれと言ってる」と言うたびに,デリダは決まってこう返すんだ――「キミは私を理解していないよ.」 だけど,正しい解釈を考えだそうとがんばってみたって,なかなかかんたんにはいかない.このことは前にミシェル・フーコーに言ったことがある.デリダに対する彼の敵対心ときたらぼくすら上回るくらいだけど,その彼が言うには,デリダは obscurantisme terroriste(テロリズム的蒙昧主義)って手法を実践してるんだって.ぼくらはフランス語で会話してたんだ.で,ぼくはこう言った,「いったいそりゃなんのこと?」 で,フーコーが言うには,「デリダはすごくあやふやな書き方をして,何を言ってるんだかわからなくするんだ.これが「蒙昧主義」の部分.で,人がじぶんを批判すると,『あなたは私を理解していないよ.あたまがわるいね』とくる――これがテロリズムの部分だよ.」 これが気に入ってね.脱構築について文章を書いたときに,ミシェルにその発言を引用してもいいかなって訊いたら,「いいよ」って言ってくれたよ.
 フーコーはしょっちゅうデリダと一括りにされてた.でも,それはフーコーに対してすごくアンフェアだよ.彼は思想家としてデリダとはまるで器がちがう.

2015年1月25日日曜日

"technically"@xkcd

ウェブコミック xkcd で,先日,こんなネタがあった:



いちおう訳しておくと:
A: "Well, technically, food is a 'drug,' since it's a substance that alters how your body works so yes, I'm -"
B: "Hey, look at that weird bug!"
My life improved when I realized I could just ignore any sentence that started with "technically."  
 A: まあ,厳密に言えば食べ物は『ドラッグ』だけどね.だって,体のはたらきに影響する物質なんだだもの.だからぼくは――
B: 見て見て,あそこにへんな虫がいるよ!
「厳密に言えば」で始まる文は無視してかまわないってわかってから生活が改善した.

▼ xkcd のウェブページで画像にマウスオーバーすると表示されるテキスト:
alt text: "Technically that sentence started with 'Well,' so-- Ooh, a rock with a fossil in it!"
「厳密に言えばあの文は『まあ』ではじまってるわけで――おおっと,化石入りの岩石だよ!」

"technically" の用法については,前にも取り上げたことがある:コレコレ

※ヨソだと,「涙目で仕事しないSE」さんがこのマンガを訳してらっしゃる

2015年1月22日木曜日

文献メモ:クローディア・ビアンキ「指標詞,言語行為,ポルノグラフィ」

別に著者の主張に賛成するわけではなくて,こういうのがあったのを忘れてたのでここにメモっておく:
  • Claudia Bianchi, 2008. "Indexicals, speech acts and pornography," Analysis 68:4, October 2008, pp.310-16. 
なお,論文は著者のページで閲覧できる(いま気づいた).

【要旨】
過去20年で,録音メッセージや書き付けは,指標表現の意味論にとって重要なテストにして思考を喚起するパズルとなってきた(Smith 1989; Predelli 1996, 1998a, 1998b, 2002; Corazza et al. 2002; Romdenh-Romluc 2002 を参照).とりわけ,Stefano Predelli が提起した意図基盤のアプローチは,言語の哲学におけるいくつかの大きな問いに興味深い関連があることがわかっている.近年の論文で,Jennifer Saul (2006) は指標詞と録音メッセージに関する文献を参照して,Rae Langton による次の主張を批判している.すなわち,ポルノグラフィ作品は発語内行為として理解できる――とくに,女性を従属させる行為や女性を沈黙させる行為として理解できるというのが,その主張である.Saul の論証によれば,ポルノグラフィ作品を言語行為として理解するのは意味をなさない.なぜなら,文脈における発話しか言語行為として理解できないからだ.もっと正確に言うなら,映画のようなポルノグラフィ作品は,さまざまな文脈で使用できる録画・録音 (recordings) と見ることはできる――ちょうど,書き付けたメモや留守番電話メッセージと同様のものと考えることはできる.Saul によれば,文脈を考慮に入れると,Langton の急進的な説の論拠は弱まる――大きく弱めたかたちで定式化しなおさなければならなくなる.文脈における発話のみが言語行為たりうるのであり,したがって文脈におけるポルノグラフィー作品のみが女性を沈黙させる発語内行為として考えることができるという Saul の主張を本稿では受け入れる.だが,Saul による再定式化は Langton の説を弱めるものではないことを示す.この目的のため,ここでは,録音メッセージの指標表現が見せる意味論的なふるまいを説明するために Predelli が提案した区別を用いる――すなわち,発話文脈と解釈文脈の区別を用いる.

▼ セクションの見出し
1. ポルノグラフィーと言語行為
2. 指標詞,書き付け,文脈
3. 意図された文脈とポルノグラフィー
4. 結語
Saul の論文はコレ:
  • Jennifer Saul,  2006. "Pornography, speech acts and context." Proceedings of the Aristotelian Society 106:229–48.  
このあたりの議論は,スタンフォード哲学事典の下記項目(とくにセクション 2.2)を参照するといいようだ:




BTヘッドホンZX750BN:5ヶ月後



ワイヤレスヘッドホン MDR-ZX750BN [Amazon] を使って5ヶ月ほど経過した.使い始めた頃に書いたように,使い勝手のいいヘッドホンだ.その印象はいまでも変わらない.

その後,さらにいいと思った点は2つ.

ハーフォード「ノーと言うことの力」(翻訳記事にあらず)

お願いごとを断るのはなにかとむずかしい.相手への義理もあるし,チャレンジから逃げてるような気分にもなる.経済学者のティム・ハーフォードが『フィナンシャル・タイムズ』のコラムで,お願いごとを機会費用の観点から取り上げてる (Tim Harford "The power of saying no")
《お願いごとに「イエス」と答えるたびに,その機会にできた他のあらゆることに「ノー」と言ってることになる》