2020年12月29日火曜日

にっきだよ

田中拓道『リベラルとは何か』(中公新書, 2020)の最後の方で (pp.186-8),「日本の三重苦」として「恒常的な財政赤字の拡大」「少子高齢化の急激な進展」「「格差」の固定化」が上げられていて,「その1つ目を懸念しすぎて残り2つをなおさら深刻にしたのでは」と思わずにいられなかった.(べつに,全体として悪い本だとは思わない)

***

この本は,最初の方で (p.7) 「リベラル」をこう定義している:

価値の多元性を前提として,すべての個人が自分の生き方を自由に選択でき,人生の目標を自由に追求できる機会を保障するために,国家が一定の再分配を行うべきだと考える政治的思想と立場

(※細かいこと:おそらく「リベラル」のもとになっているだろう英単語 "liberal" を名詞で用いる場合は,通例,ある種の *人* を表す: 「他人を尊重する人」「政治的・社会的・宗教的な変化を支持する人」――日本語でも,形容動詞「リベラルな」ではなく名詞で使う場合には,人を指すように思う(ソースなし).著者によれば,「現代の政治理論や政治哲学で語られる「リベラリズム」と,現実政治の文脈で語られる「リベラル」の間には,無視できない意味のズレがある」(p.6) という.普通の用法ならそうだろう.一方は主義・考えを表し,他方はある種の人を表すのだから.もしかすると,政治学では名詞 "liberal" が思想・立場を表す用法が定着しているのかもしれないけれど…そうなのかな.)

***

同書では,「リベラル」対「保守」の対立と,「国家中心」対「市場中心」の対立をあわせて,こんな図式で3つの思想を整理している (p.135):


でも,この対立軸でいう「リベラル」「保守」がそれぞれどういう特徴を表すのか,ここでははっきりと限定されていない.さっきの定義を踏まえると,「リベラル」は国家による再分配を支持するのだから,定義により「国家中心」寄りになりそうなものだけれど,この図ではそうなっていない――国家中心/市場中心に関して中立的なことを「リベラル」対「保守」の軸は表していないとおかしい.だとすると,定義の他の要素である「価値の多元性」を前提にすることや生き方の選択・人生の目標の自由な追求を重視することが,この対立軸で「リベラル」が表す特徴なんだろうか.

「(名詞句)を否定する」

 「性差を否定する」「男らしさ・女らしさを否定する」といったように,「(名詞句)を否定する」のパターンを見かけたら,名詞の部分を文にひらいて意味をもっと限定できないか考えてみるといい,とぼくは思ってる.

e.g. 「性差を否定する」

  • 性差があることを否定する」;「性差がないと主張する」
  • 性差があるべきだということを否定する」;「性差があるべきでないと主張する」

e.g. 「男らしさ・女らしさを否定する」
  • 男らしさ・女らしさがあることを否定する」;「男らしさ・女らしさはないと主張する」
  • 男らしさ・女らしさがあるべきだということを否定する」;「男らしさ・女らしさがあるべきでないと主張する」
  • 男らしさ・女らしさに値打ちがあるということを否定する」;「男らしさ・女らしさに値打ちがないと主張する」

書く側としては,「(名詞)を否定する」であいまい・あやふやになってしまうのを避けるために,もっと意味を限定する表現に書き換えられないか考えた方がいいだろう.

2020年12月16日水曜日

「犬笛を幻聴に置き換えても,告発の中身はなにも変わらないだろうと思いますね」

 しばらく前のスティーブン・ピンカー告発書簡では,ピンカーが人種差別的な「犬笛使用」(dogwhistling) をやったというのも LSA フェロー除名の理由に挙げられていた.これについて,Reason 誌の記事ではこんな風に書かれている:

ピンカーに対する6つ目の糾弾では,告発者たちがピンカーを人種差別的な「犬笛使用」(dogwhistrling) で告発している.彼らによれば,犬笛使用とは「〔そんなことはしていないと〕否認しうる言語行為」であり,外部集団と内部集団に同時に別々のメッセージを送る(内部集団あてのメッセージはおうおうにしてタブーであったり物議を醸すものであったり扇動的なものであったりする)」のだという.ピンカーが2つのツイートでやったとされる犬笛使用には, "urban violence"(都市での暴力)と "urban crime"(都市での犯罪)が含まれている.当該のツイートは,それぞれ別の社会学者が執筆した2本の『ワシントンポスト』論説を引用している.論説は,警察の予算を減らすとさまざまな問題が生じるだろうという内容だ.ピンカーをアメリカ言語学会〔のフェロー〕から追放しようと試みている人々の頭のなかでは,これらのフレーズは「黒人の人々を本質からして劣った存在ということにしたり,しばしば本質からして犯罪者として扱ったりする見解」を支持する暗号のような人種差別的表現だということになっている.ピンカーがそうした犬笛使用をしたという証拠に,どちらの論説でも論者じしんはそっくりそのままのフレーズを使っていないと書簡の執筆者たちは指摘する.

なるほどプリンストン大学の社会学者パトリック・シャーキーはこう書いている:「暴力は都市にとって根本的な課題だ:公共空間が安全でなければ,なにもごとも機能しない」〔"urban" を使っていない〕.さて,一般的に,形容詞 urban は「都市の」「都市に関わる」という意味だとよく定義されている.ちなみに,シャーキーは著書に『落ち着かない平穏:犯罪の大減少・都市生活の刷新・暴力に対する次の戦争』があり,2018年に『ニューヨークタイムズ』論説にこんな題で寄稿している:「都市犯罪減少から得られる2つの教訓」("Two Lessons of the Urban Crime Decline").この論説でシャーキーは(『ワシントンポスト』論説のときと同じく)こう論じている―――警察と協力している地域社会の組織・団体は「都市暴力の撲滅」("combating urban violence") できわめて重要な役割を果たしうる.

もう一人はノースイースタン大学の犯罪学者ロッド・ブランソンで,『ワシントンポスト』論説では警察活動が不十分な場合の危険について述べている.ブランソンは,効果の上がらない警察活動について長らく言われている不満を言い表す際に,こう書いている:「住人たちは都市の居住地域 (urban neighborhoods) に不安を感じている.」 また,近年,「とくに低所得の地域で,アフリカ系アメリカ人やその他の非白人の人々が警察に虐待を受けるおそれ」に関心が集まっていることにブランソンは注意をうながし,警察がなによりも解決に手こずっている種類の暴力犯罪が「まさにそうした地域社会にもっぱら集中している」という初見を述べている.興味深いことに,ブランソンは 2019年に Annual Review of Sociology に掲載された論文「人種・場所・効果的警察行動」の共著者でもある.この論文では,「都市犯罪問題 (urban violent crime problems) のお粗末な分析と不適切な記述は,刑事司法制度における人種間格差をいっそう悪化させるプログラムや問題のある警察行動政策の採用につながりうる.」 シャーキーやブランソンも,犬笛を使用していたことになるだろうか? 

どうやら,「ピンカーは犬笛を使っていたのではなくて,もしかして,人種と警察活動に関する現代の問いを理解するのに役立つと思った論説を読者に知らせようとして,Twitter で文字数を減らすフレーズを使っていただけなのでは」という考えは,熱狂していた書簡執筆者たちには思い浮かばなかったらしい.ピンカーはこんな所見を語っている.「犬笛使用というのは,当該の人物が口にした文字通りの実際の中身にはないのにあるということになっている犬笛使用をやすやすと聞き取れてしまうために誰であろうとどんなことでも言ったと主張できる玄妙な聖書解釈技法なんですよ.」「犬笛を幻聴に置き換えても,告発の中身はなにも変わらないだろうと思いますね.」


2020年9月29日火曜日

アリソン・ウッド・ブルックス「大統領選候補が討論で守るべき3つのウ」

 ハーバード大学の雑誌『ガゼット』で大統領選挙に関する記事を組んでいる.そのなかでアリソン・ウッド・ブルックスが短い文章を寄せている:

意見がぶつかったり異なったりするなかで会話を進めていくのは,困難なタスクだ.とくに,お互いが相手を説得してやろうと目論んでいるときには,なおさら難しい.実際に意見がぶつかった大量の会話に自然言語処理 (NLP) を用いた近年の研究では,新たな発展が見られる.そうした研究では,会話を敵対的な物別れに終わらせにくくし,考えを変えたり健全な人間関係を継続させつつ会話を終わらせやすくする要素がいくらか明らかになっている.たとえば,相手を尊重する言葉遣いをすること(e.g. 罵倒しない),他人の視点を積極的に認めてはっきりさせること(「こういうお話だと理解しても大丈夫でしょうか,つまり…」),どんなにささいでわかりきったことであろうと相手の話を補う質問をすること,自分の主張を事実として述べずに断定を避ける表現をはさむこと(「…と思います」,前向きなこと vs. 後ろ向きなことで論証を述べること(「…であるのがのぞましいですね」vs「…すべきではありません」),「なぜなら」「したがって」のような説明語を避けること,自分を複数の自己にわけること(「それには賛成ですね,ただもしかして…じゃないかと思う気持ちもぼくにはありまして」).

研究の初期にえられた証拠からは,会話の「3つのウ」(うやまい・うけいれ・うけこたえ)は学習可能であり,こうした会話の技術を誰でもうまく磨けるらしいことが示されている.バイデンやトランプであってもだ.意外にも,こうした技術を習得すれば,自分のメッセージがいっそう説得的になる.だが,重要なポイントとして,大統領選の討論は1対1の会話ではない.あたかも2人が言葉を交わしているかのような体裁をとった,大勢の観客がいる政治的な劇場だ.他人に見聞きされない場で衝突をなんとか切り抜けるのに役立つことが,そのように大勢の観客がいる場でもうまくいくかどうかはわからない.もし2人の主な目標が人々の心をつかむことにあるなら,公開の大統領選討論という大きな掛け金があっかった奇妙なアリーナであっても,候補者たちは3つのウを遵守すること(相手をうやまい,うけいれ,うけこたえをすること)によってうまくやれるだろう.私の仮説は検証可能だ:論戦の後でその音声書き起こしを私たちの NLP 検出器にかけてみて,バイデンとトランプはそれぞれどんなスコアをとるだろうか? そして,2人の会話パフォーマンスのスコアは,公衆の受け取り方や支持率と合致するだろうか? 私としては,ぜひ確かめてみたい.

「3つのウ」はちょっと苦しい訳で,英語では respectful, receptive, responsive の「3つのR」だ.




2020年8月26日水曜日

新刊メモ: プラックローズ&リンゼイ『シニカルな理論たち』(Cynical Theories)

  • Helen Pluckrose & James A. Lindsay, Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything about Race, Gender, and Identity—and Why This Harms Everybody. Pitchstone Publishing, 2020. [Kindle]

著者紹介によると,プラックローズは著作家で Areo Magazine ってやつの編集者だそうで,もともと人文学をやってたけれどそこから遠ざかったらしい.リンゼイは数学者 (Ph.D) で,New Discourse ってウェブサイトをやってる.この2人は,以前,ソーカル事件と似たトリックを仕掛けたメンバーでもある.

本文はこんな構成になってる:

  • 序論
  • 第1章: ポストモダニズム:知識と権力の革命
  • 第2章: ポストモダニズムの応用編: 抑圧をリアルなものにする
  • 第3章: ポスト植民地理論: 西洋と脱構築して他者を救う
  • 第4章: クイア理論: ふつうからの自由
  • 第5章: 批判的人種理論と交差性: 人種差別を終わらせるべくいたるところに人種差別を見出す
  • 第6章: フェミニズムとジェンダー研究: 洗練としての単純化
  • 第7章: 障害・肥満研究: 支援グループのアイデンティティ《理論》
  • 第8章: 《社会正義》の学術と思想: 《社会正義》に合わせた真実
  • 第9章: 《社会正義》の実践編: いつでも書類上では《理論》はすばらしい
  • 第10章: 《社会正義》イデオロギーへの代案: アイデンティティ政治ぬきの自由主義







2020年7月12日日曜日

小さな調べ物:ケイト・マン先生がピンカー先生の反フェミニズム的立場を詳しく教えてくれると聞いて

スティーブン・ピンカーをアメリカ言語学会の「フェロー」(傑出した業績をもつ研究者その他が選ばれる)およびメディア専門家から除名すべきだという公開書簡が出て,Twitter でも少し話題になった.(追記: shorebirdさんが日本語でまとめている

で,そうしたツイートのひとつに,ケイト・マン『ひれふせ,女たち』にピンカーの「反フェミニズム的立場」が詳しく書かれているというものがあった.ぼくはピンカーの著作のファンではあるけれど,べつに彼のあらゆる言動を追いかけてるわけじゃないし,なにかけしからんことでも言っていたんだろうかと,興味を覚えた.

とはいえ,訳書はお値段が高いし近所の図書館では利用できない様子だったので,とりあえず原書 Down Girl だけを参照してみると,本文で1箇所,脚註で1箇所,ピンカーについてまとまって述べた文章がある.残念ながら,どちらの箇所でもとくに詳しい情報はえられなかった.それどころか,ピンカーに不利な印象にまちがって誘導しようとしているところもあって,困惑してしまった.

ここでは,本文での言及をとりあげよう.その箇所からわかるピンカーの「反フェミニズム的立場」はどんなものだろうか.

本文でピンカーに言及しているのは,2014年におきたロジャー・エリオットの乱射事件が「女性嫌悪」によるものだったのかを論じているセクションだ.あれは女性嫌悪によるものだ,いや違う,という議論が応酬されたのを短く紹介したあと,著者のケイト・マンはこんな風に書いている(拙訳;太字強調は引用者によるもの):
(…)同じ日に,ローリー・ペニー (2014) が『ニューステイツマン』でこう異論を唱えた.「白人男性によるあらゆるテロ行為に言い訳がつけられて大目に見られてきたのと同様に,このところ,極度の女性嫌悪もこうした言い訳がつけられてきた――「あれは異常者によるものだ」「たまたま狂人がやったことだ」「本物の男がやったことじゃない」.なぜ,パターンが存在していることを私たちは否認しているのだろうか?」

スティーブン・ピンカーが,このペニーの問いに答えているらしきことを言った――ぶっきらぼうな発言とはいえ,とにかく言ったにはちがいない.ピンカーは直後にこうツイートしている:「UCSB〔カリフォルニア大学サンタバーバラ校〕の殺人事件は女性に対する憎悪のパターンに該当するという考えは,統計をよくわかっていない」.このツイートは,『ナショナル・レビュー』〔保守系の雑誌〕の記事にリンクを貼っていた.記事の著者は,ヘザー・マクドナルドだ.ピンカーのツイートは,ずいぶん暗号めいている.彼が *言わずに* 済ませた言葉に留意しよう.ピンカーは,「フェミニストの」「非合理的な」「ヒステリー的」「愚か」という言葉を使っていない.驚くべきことに,「女性嫌悪」の単語すら使っていない.かわりに,ピンカーがリンクを貼ったマクドナルドの記事は,彼が言わなかったことをすべて言っている――さらには――そう望んでいた人たちもいたかもしれない――もっと言っている.
この引用範囲で指摘したいことが2つある.

1つめ.太字強調した部分に注目しよう.これを読むと,ピンカーがリンクを貼った記事では「フェミニストの」「非合理的な」「ヒステリー的」「馬鹿げた」といった単語が登場するんだろうな,と思いたくなる.

確かめてみよう.当該の記事は,いまページがなくなってしまっているので,Wayback Machine で記事が公開された当日のページを参照する(同じ記事のいまのウェブページはこちら).それぞれの単語をページ検索すると――
  • feminist(フェミニスト): 言ってる
  • irrational(非合理な): 言ってない
  • hysterical(ヒステリー的): 言ってない
  • stupid(愚か,馬鹿げている): 言ってない――けれど,類義語の absurd はフェミニストの分析を形容する言葉として出てくる.
  • misogyny(女性嫌悪): 言ってる
侮蔑に使われそうな単語の「非合理な」「ヒステリー的」「愚か」は出てきていない.たしかに,「馬鹿げている」(absurd) は出てくるけれど,その箇所はフェミニストや女性の知性を悪くいう文ではなくて,フェミニストの分析がおかしいと言っている文だ.

ケイト・マンがどういう意図で「彼が言わずに済ませた言葉に留意しよう」と言ったのかは,はっきりしない.もしも,リンク先の記事でフェミニストたちをこうした単語で罵倒していたなら,なるほど「彼が言わなかったことをすべて言っている」のかもしれない.でも,かりにそうだとしても,ピンカーが自分で罵倒せずに他人の口を借りて間接的に罵倒したとまでは言いにくい.なぜなら,彼のツイートはただ統計のことだけを言っているからだ.これが次の点に関連する.

2つめ.ピンカーがリンクを貼った記事の冒頭には統計の話が出てくるけれど,こちらをマンはとりあげていない.
2012年の殺人犠牲者全体のうち,77パーセント以上が男性だ.死亡に至らない銃撃事件の標的は,それよりもさらに男性に偏っている.女性に拒絶された報復としてサンタ・バーバラで乱射に及んだ自己愛的狂人エリオット・ロジャーが殺害した犠牲者6人のうち,4名は男性だった.それにも関わらず,フェミニスト産業はすぐさまこの痛ましい大量殺戮事件を女性に対するアメリカの戦争の象徴に仕立て上げた.(強調は引用者によるもの)
この記事に統計らしい話はここしかない:殺人事件の被害者は女性より男性が多く,ロジャー・エリオットの被害者も同様に男性の方が多かった.この数字の意義ははっきりしない.女性嫌悪による殺人というパターンを否定する方の論拠なのか,エリオットがとりわけ女性を狙ったわけではないという方の論拠なのか,それともまた別の論点に関わるのか,ぼくには判断がつかない.でも,ピンカーのツイートからして,この箇所が主に参照されるべきところなのははっきりしている.

ところが,マンはこの部分にふれずに話を続けて,リンク先の記事がどんなことを言っているかを紹介していく:
意味深にも「UCSB 独我論者たち」と題されたマックドナルドの記事の内容は,見出しの一文がきれいに要約されている:「ソシオパスが発狂し――女性よりも男性を多く殺し――そしてフェミニストは常套句を繰り出す.」 マックドナルド (2014) は,ロジャーの行為をこう記してすませている.「明らかに狂人の行動であり(…)彼の言葉も身振りも,すべて偏執狂的で自己憐憫的な妄想を物語っている.隠者生活のエコーチャンバーのなかで彼みずからの錯乱した自己愛がこの妄想を増幅させている.」 さらに,「この国には,性別にもとづく乱射事件のパターンはない.あるのは,治療されずにいる精神疾患者によるパターンの興隆だ.しかし」――とマックドナルドは言葉を続ける(この「しかし」に留意すべきだ)――「ロジャーの大量殺戮事件のフェミニスト的分析の根本的な前提,すなわち合衆国は「女性嫌悪的」だという前提は,明らかにおかしい.」
このあとは,記事の一節をまるまる引用している.
我々の文化は,女性の成功を促進し言祝ぐことに取り憑かれている.競争力のある候補に欠けていることや実力主義的な基準からみたコストがどうであろうと女性教授や女性研究者を雇用するように大学の経営陣から圧力を受けていない科学系学部や研究室は,アメリカ国内にひとつもない.豊かな財団や個人の慈善活動家たちは,こぞってひとりの女の子の自尊心や学業的成功を量産している.一方,男の子たちは,慈善活動による支援対象の候補として,大きく間を開けられている.学業的にも社会的にもいっそう大差を付けられていっているのは,女の子たちではなく男の子たちであるにも関わらずだ.(…)女の子たちには,絶え間なくこんな声がかけられる.「強い女性ならなんだってできるからね.」 その「できる」ことには,一人で子供を育てることも含まれる.会議の討論者席・メディアの席・論説ページにかならず女性を入れるようにという圧力の「受益者」になっていることをまるで意識していない女性は,たとえ公共の領域にほとんど縁がない人であろうとも,自分をごまかしている.企業の役員や経営陣は,猛烈なやる気をもつ女性を捜し求めている.さらに,この優遇が明日にも終わろうと,女性たち,とくに高等教育を受けてフェミニストの隊列に加わっている女性たちが暮らす世界は,相変わらず,前例がないほど機会に満ちていることだろう.(2014) 
この引用文を読むと,記事の著者であるマクドナルドがフェミニストの分析をどう批判しているのかはわかる.ピンカーがこれに同意しているのかどうかはわからない.

引用のあと,マンはこう書いている:
マクドナルドは正しかったろうか? 性的な攻撃であれそうでない攻撃であれ,男性からの攻撃を受けながらもその男性たちに奉仕することに不満をこぼす女性たちはどうだろう? 「こうした女性たちは,どうやら,私とは別世界に生きているようだ」――あらゆるフェミニストとあわせて,こうした女性たちは「独我論者」ということにされているらしい.
このあとは,マクドナルドの他にもロジャー・エリオットの事件が女性嫌悪によるものなのを否定する意見はいろいろあるよ,と列挙しているだけだ.

ケイト・マン『ひれ伏せ,女たち』の本文でピンカーが出てくるのは,これっきりだ.少なくともこの箇所では,ピンカーの「反フェミニズム的立場」について詳しいことはわからなかった.
  • ロジャー・エリオット事件が女性嫌悪による殺人というパターンだという説について,「統計がよくわかっていない」という言葉を添えて,この説の否定材料になるらしき統計ネタが出てくる記事へのリンクを貼った――フェミニスト的な分析に反対しているのはわかる.でも,それだけだ.
  • ケイト・マンは,もしかするとピンカーが間接的にフェミニストを罵倒していると言いたかったのかもしれない.でも,その言い分は成り立ちそうにない.

2020年7月8日水曜日

「公正と公開討議についての書簡」

Harper's Magazine に公開された書簡を訳したよ.

「公正と公開討議についての書簡」

2020年7月7日

私たちの文化的制度は,試練の時を迎えようとしている.人種的・社会的な公正をもとめる強力な抗議が起こり,長らく遅れていた警察改革を求める声が上がっているばかりか,さらに,高等教育・ジャーナリズム・慈善活動・芸術にとどまらず,私たちの社会全域にわたって,いっそうの平等と包摂が広く求められている.しかし,こうした清算は必要ではあるものの,同時に,この清算によって新たな種類の道徳的態度と政治的な姿勢が強化されている.この道徳的態度と政治的姿勢は,イデオロギー面での順応を優先して,公開の討議とお互いの相違への寛容という私たちの規範を弱める傾向がある.公正を求める前者の動きを私たちは歓迎する一方で,後者には抗議の声を上げる.反自由主義 (illiberalism) のさまざまな勢力は,世界中で力をつけており,ドナルド・トランプという強力な同盟者もいる.トランプは,民主主義に対する紛れもない脅威を代表する人物だ.だが,これへの抵抗をはかろうとして,みずからも教条や強制で団結することになってはいけない――右派デマゴーグは,すでにこれらを利用している.いたるところに入り込んでいる不寛容の空気に対して声を上げることなくして,私たちがのぞむ民主的な包摂は達成できない.

情報とアイディアの自由な交換という自由主義社会の血液は,日に日に制約を受けるようになっている.急進右派からこうした制約がもたらされることは私たちも予想してきたが,検閲・あら探しも私たちの文化にいっそう広まっている:対立する見解への不寛容,公開の場での晒しあげ・追放の流行,複雑な政策問題を盲目的な道徳面での確信に解消してしまう傾向が広まっている.あらゆる分野からもたらされる断固とした言論,辛辣ですらある対抗言論の価値を,私たちは支持する.だが,言論や思想における〔道徳的な〕違反・逸脱と受け取られた言動に対して,即座に厳しい懲罰を加えるべしとの声を耳にする機会が,いまやあまりに多くなっている.さらに,いっそう悩ましいことに,組織・団体の指導者たちも,混乱のうちにダメージコントロールをはかろうとして,思慮ある改革を行うかわりに,〔当該の言動への制裁として〕拙速かつ不釣り合いな処罰を下している.論争をよぶ記事を掲載した編集者は解雇され,不誠実とされた書籍は回収され,特定の話題についてジャーナリストたちは執筆を禁じられ,講義で文学作品から引用した教授は調査を受け,ピアレビューを受けた学術研究を配布した研究者は解雇され,組織の長たちはときにたんなる不手際でしかない間違いで失脚している.個別事例をめぐる議論がどうであれ,こうしたことの結果として,報復の脅威なしに言えることの領域は一貫して狭まり続けている.共通の見解から逸脱したり,さらにはただ同意する姿勢が不十分だとされたりして生計を失うのを恐れる著作家・芸術家・ジャーナリストたちのあいだにリスク回避が強まるという対価を,私たちはすでに支払っている.

こうした息苦しい空気は,最終的には私たちの時代できわめて重大な目的を損なうことになる.抑圧的政府によるものであれ,不寛容な社会によるものであれ,討議が制限されれば,必ず力なき者は痛手を負い,誰もが民主的な参加をしにくくなる.悪しきアイディアを打ち負かす方法は,それを暴き,論証し,説得することであって,相手を黙らせたり,追放を願ったりすることではない.公正と自由のいずれか一方を迫る虚偽の選択を,私たちは拒否する.公正と自由は,2つそろってはじめて存在しうる.著作者として,私たちが必要とする文化は,実験を行い,リスクをとり,失敗を犯すことを受け入れる文化だ.職業上の悲惨な帰結をともなうことなく誠意をもって意見を異にできる条件を,私たちは保つ必要がある.私たちの著作が寄って立つところを守ろうとしないのであれば,公共や国家がかわりに守ってくれるなどと期待すべきではない.