2020年7月12日日曜日

小さな調べ物:ケイト・マン先生がピンカー先生の反フェミニズム的立場を詳しく教えてくれると聞いて

スティーブン・ピンカーをアメリカ言語学会の「フェロー」(傑出した業績をもつ研究者その他が選ばれる)およびメディア専門家から除名すべきだという公開書簡が出て,Twitter でも少し話題になった.(追記: shorebirdさんが日本語でまとめている

で,そうしたツイートのひとつに,ケイト・マン『ひれふせ,女たち』にピンカーの「反フェミニズム的立場」が詳しく書かれているというものがあった.ぼくはピンカーの著作のファンではあるけれど,べつに彼のあらゆる言動を追いかけてるわけじゃないし,なにかけしからんことでも言っていたんだろうかと,興味を覚えた.

とはいえ,訳書はお値段が高いし近所の図書館では利用できない様子だったので,とりあえず原書 Down Girl だけを参照してみると,本文で1箇所,脚註で1箇所,ピンカーについてまとまって述べた文章がある.残念ながら,どちらの箇所でもとくに詳しい情報はえられなかった.それどころか,ピンカーに不利な印象にまちがって誘導しようとしているところもあって,困惑してしまった.

ここでは,本文での言及をとりあげよう.その箇所からわかるピンカーの「反フェミニズム的立場」はどんなものだろうか.

本文でピンカーに言及しているのは,2014年におきたロジャー・エリオットの乱射事件が「女性嫌悪」によるものだったのかを論じているセクションだ.あれは女性嫌悪によるものだ,いや違う,という議論が応酬されたのを短く紹介したあと,著者のケイト・マンはこんな風に書いている(拙訳;太字強調は引用者によるもの):
(…)同じ日に,ローリー・ペニー (2014) が『ニューステイツマン』でこう異論を唱えた.「白人男性によるあらゆるテロ行為に言い訳がつけられて大目に見られてきたのと同様に,このところ,極度の女性嫌悪もこうした言い訳がつけられてきた――「あれは異常者によるものだ」「たまたま狂人がやったことだ」「本物の男がやったことじゃない」.なぜ,パターンが存在していることを私たちは否認しているのだろうか?」

スティーブン・ピンカーが,このペニーの問いに答えているらしきことを言った――ぶっきらぼうな発言とはいえ,とにかく言ったにはちがいない.ピンカーは直後にこうツイートしている:「UCSB〔カリフォルニア大学サンタバーバラ校〕の殺人事件は女性に対する憎悪のパターンに該当するという考えは,統計をよくわかっていない」.このツイートは,『ナショナル・レビュー』〔保守系の雑誌〕の記事にリンクを貼っていた.記事の著者は,ヘザー・マクドナルドだ.ピンカーのツイートは,ずいぶん暗号めいている.彼が *言わずに* 済ませた言葉に留意しよう.ピンカーは,「フェミニストの」「非合理的な」「ヒステリー的」「愚か」という言葉を使っていない.驚くべきことに,「女性嫌悪」の単語すら使っていない.かわりに,ピンカーがリンクを貼ったマクドナルドの記事は,彼が言わなかったことをすべて言っている――さらには――そう望んでいた人たちもいたかもしれない――もっと言っている.
この引用範囲で指摘したいことが2つある.

1つめ.太字強調した部分に注目しよう.これを読むと,ピンカーがリンクを貼った記事では「フェミニストの」「非合理的な」「ヒステリー的」「馬鹿げた」といった単語が登場するんだろうな,と思いたくなる.

確かめてみよう.当該の記事は,いまページがなくなってしまっているので,Wayback Machine で記事が公開された当日のページを参照する(同じ記事のいまのウェブページはこちら).それぞれの単語をページ検索すると――
  • feminist(フェミニスト): 言ってる
  • irrational(非合理な): 言ってない
  • hysterical(ヒステリー的): 言ってない
  • stupid(愚か,馬鹿げている): 言ってない――けれど,類義語の absurd はフェミニストの分析を形容する言葉として出てくる.
  • misogyny(女性嫌悪): 言ってる
侮蔑に使われそうな単語の「非合理な」「ヒステリー的」「愚か」は出てきていない.たしかに,「馬鹿げている」(absurd) は出てくるけれど,その箇所はフェミニストや女性の知性を悪くいう文ではなくて,フェミニストの分析がおかしいと言っている文だ.

ケイト・マンがどういう意図で「彼が言わずに済ませた言葉に留意しよう」と言ったのかは,はっきりしない.もしも,リンク先の記事でフェミニストたちをこうした単語で罵倒していたなら,なるほど「彼が言わなかったことをすべて言っている」のかもしれない.でも,かりにそうだとしても,ピンカーが自分で罵倒せずに他人の口を借りて間接的に罵倒したとまでは言いにくい.なぜなら,彼のツイートはただ統計のことだけを言っているからだ.これが次の点に関連する.

2つめ.ピンカーがリンクを貼った記事の冒頭には統計の話が出てくるけれど,こちらをマンはとりあげていない.
2012年の殺人犠牲者全体のうち,77パーセント以上が男性だ.死亡に至らない銃撃事件の標的は,それよりもさらに男性に偏っている.女性に拒絶された報復としてサンタ・バーバラで乱射に及んだ自己愛的狂人エリオット・ロジャーが殺害した犠牲者6人のうち,4名は男性だった.それにも関わらず,フェミニスト産業はすぐさまこの痛ましい大量殺戮事件を女性に対するアメリカの戦争の象徴に仕立て上げた.(強調は引用者によるもの)
この記事に統計らしい話はここしかない:殺人事件の被害者は女性より男性が多く,ロジャー・エリオットの被害者も同様に男性の方が多かった.この数字の意義ははっきりしない.女性嫌悪による殺人というパターンを否定する方の論拠なのか,エリオットがとりわけ女性を狙ったわけではないという方の論拠なのか,それともまた別の論点に関わるのか,ぼくには判断がつかない.でも,ピンカーのツイートからして,この箇所が主に参照されるべきところなのははっきりしている.

ところが,マンはこの部分にふれずに話を続けて,リンク先の記事がどんなことを言っているかを紹介していく:
意味深にも「UCSB 独我論者たち」と題されたマックドナルドの記事の内容は,見出しの一文がきれいに要約されている:「ソシオパスが発狂し――女性よりも男性を多く殺し――そしてフェミニストは常套句を繰り出す.」 マックドナルド (2014) は,ロジャーの行為をこう記してすませている.「明らかに狂人の行動であり(…)彼の言葉も身振りも,すべて偏執狂的で自己憐憫的な妄想を物語っている.隠者生活のエコーチャンバーのなかで彼みずからの錯乱した自己愛がこの妄想を増幅させている.」 さらに,「この国には,性別にもとづく乱射事件のパターンはない.あるのは,治療されずにいる精神疾患者によるパターンの興隆だ.しかし」――とマックドナルドは言葉を続ける(この「しかし」に留意すべきだ)――「ロジャーの大量殺戮事件のフェミニスト的分析の根本的な前提,すなわち合衆国は「女性嫌悪的」だという前提は,明らかにおかしい.」
このあとは,記事の一節をまるまる引用している.
我々の文化は,女性の成功を促進し言祝ぐことに取り憑かれている.競争力のある候補に欠けていることや実力主義的な基準からみたコストがどうであろうと女性教授や女性研究者を雇用するように大学の経営陣から圧力を受けていない科学系学部や研究室は,アメリカ国内にひとつもない.豊かな財団や個人の慈善活動家たちは,こぞってひとりの女の子の自尊心や学業的成功を量産している.一方,男の子たちは,慈善活動による支援対象の候補として,大きく間を開けられている.学業的にも社会的にもいっそう大差を付けられていっているのは,女の子たちではなく男の子たちであるにも関わらずだ.(…)女の子たちには,絶え間なくこんな声がかけられる.「強い女性ならなんだってできるからね.」 その「できる」ことには,一人で子供を育てることも含まれる.会議の討論者席・メディアの席・論説ページにかならず女性を入れるようにという圧力の「受益者」になっていることをまるで意識していない女性は,たとえ公共の領域にほとんど縁がない人であろうとも,自分をごまかしている.企業の役員や経営陣は,猛烈なやる気をもつ女性を捜し求めている.さらに,この優遇が明日にも終わろうと,女性たち,とくに高等教育を受けてフェミニストの隊列に加わっている女性たちが暮らす世界は,相変わらず,前例がないほど機会に満ちていることだろう.(2014) 
この引用文を読むと,記事の著者であるマクドナルドがフェミニストの分析をどう批判しているのかはわかる.ピンカーがこれに同意しているのかどうかはわからない.

引用のあと,マンはこう書いている:
マクドナルドは正しかったろうか? 性的な攻撃であれそうでない攻撃であれ,男性からの攻撃を受けながらもその男性たちに奉仕することに不満をこぼす女性たちはどうだろう? 「こうした女性たちは,どうやら,私とは別世界に生きているようだ」――あらゆるフェミニストとあわせて,こうした女性たちは「独我論者」ということにされているらしい.
このあとは,マクドナルドの他にもロジャー・エリオットの事件が女性嫌悪によるものなのを否定する意見はいろいろあるよ,と列挙しているだけだ.

ケイト・マン『ひれ伏せ,女たち』の本文でピンカーが出てくるのは,これっきりだ.少なくともこの箇所では,ピンカーの「反フェミニズム的立場」について詳しいことはわからなかった.
  • ロジャー・エリオット事件が女性嫌悪による殺人というパターンだという説について,「統計がよくわかっていない」という言葉を添えて,この説の否定材料になるらしき統計ネタが出てくる記事へのリンクを貼った――フェミニスト的な分析に反対しているのはわかる.でも,それだけだ.
  • ケイト・マンは,もしかするとピンカーが間接的にフェミニストを罵倒していると言いたかったのかもしれない.でも,その言い分は成り立ちそうにない.

2020年7月8日水曜日

「公正と公開討議についての書簡」

Harper's Magazine に公開された書簡を訳したよ.

「公正と公開討議についての書簡」

2020年7月7日

私たちの文化的制度は,試練の時を迎えようとしている.人種的・社会的な公正をもとめる強力な抗議が起こり,長らく遅れていた警察改革を求める声が上がっているばかりか,さらに,高等教育・ジャーナリズム・慈善活動・芸術にとどまらず,私たちの社会全域にわたって,いっそうの平等と包摂が広く求められている.しかし,こうした清算は必要ではあるものの,同時に,この清算によって新たな種類の道徳的態度と政治的な姿勢が強化されている.この道徳的態度と政治的姿勢は,イデオロギー面での順応を優先して,公開の討議とお互いの相違への寛容という私たちの規範を弱める傾向がある.公正を求める前者の動きを私たちは歓迎する一方で,後者には抗議の声を上げる.反自由主義 (illiberalism) のさまざまな勢力は,世界中で力をつけており,ドナルド・トランプという強力な同盟者もいる.トランプは,民主主義に対する紛れもない脅威を代表する人物だ.だが,これへの抵抗をはかろうとして,みずからも教条や強制で団結することになってはいけない――右派デマゴーグは,すでにこれらを利用している.いたるところに入り込んでいる不寛容の空気に対して声を上げることなくして,私たちがのぞむ民主的な包摂は達成できない.

情報とアイディアの自由な交換という自由主義社会の血液は,日に日に制約を受けるようになっている.急進右派からこうした制約がもたらされることは私たちも予想してきたが,検閲・あら探しも私たちの文化にいっそう広まっている:対立する見解への不寛容,公開の場での晒しあげ・追放の流行,複雑な政策問題を盲目的な道徳面での確信に解消してしまう傾向が広まっている.あらゆる分野からもたらされる断固とした言論,辛辣ですらある対抗言論の価値を,私たちは支持する.だが,言論や思想における〔道徳的な〕違反・逸脱と受け取られた言動に対して,即座に厳しい懲罰を加えるべしとの声を耳にする機会が,いまやあまりに多くなっている.さらに,いっそう悩ましいことに,組織・団体の指導者たちも,混乱のうちにダメージコントロールをはかろうとして,思慮ある改革を行うかわりに,〔当該の言動への制裁として〕拙速かつ不釣り合いな処罰を下している.論争をよぶ記事を掲載した編集者は解雇され,不誠実とされた書籍は回収され,特定の話題についてジャーナリストたちは執筆を禁じられ,講義で文学作品から引用した教授は調査を受け,ピアレビューを受けた学術研究を配布した研究者は解雇され,組織の長たちはときにたんなる不手際でしかない間違いで失脚している.個別事例をめぐる議論がどうであれ,こうしたことの結果として,報復の脅威なしに言えることの領域は一貫して狭まり続けている.共通の見解から逸脱したり,さらにはただ同意する姿勢が不十分だとされたりして生計を失うのを恐れる著作家・芸術家・ジャーナリストたちのあいだにリスク回避が強まるという対価を,私たちはすでに支払っている.

こうした息苦しい空気は,最終的には私たちの時代できわめて重大な目的を損なうことになる.抑圧的政府によるものであれ,不寛容な社会によるものであれ,討議が制限されれば,必ず力なき者は痛手を負い,誰もが民主的な参加をしにくくなる.悪しきアイディアを打ち負かす方法は,それを暴き,論証し,説得することであって,相手を黙らせたり,追放を願ったりすることではない.公正と自由のいずれか一方を迫る虚偽の選択を,私たちは拒否する.公正と自由は,2つそろってはじめて存在しうる.著作者として,私たちが必要とする文化は,実験を行い,リスクをとり,失敗を犯すことを受け入れる文化だ.職業上の悲惨な帰結をともなうことなく誠意をもって意見を異にできる条件を,私たちは保つ必要がある.私たちの著作が寄って立つところを守ろうとしないのであれば,公共や国家がかわりに守ってくれるなどと期待すべきではない.